Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 27 文政天保時代』

その3

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

 二 松平信明(二)

信明の消
極的






松平定信
の評




















対外策上
信明の過
失









信明死後
の政治


















諸侯の転
封



















信明の剛
直







信明の賢
























寛政初政
維持

松平信明は、何れかと云へば、積極的の経綸を、其の在職中には発揮し なかつた。何れかと云へば、寧ろ事無かれかしの方針を以て、一貫した                               いさゝ 様だ。されば彼の推薦者であつた松平定信さへも、此点に於ては、聊か 彼に就て遺憾を感じた様だ。松平定信の日記にも、   此頃吉田の宰相(松平信明)も、段々病気がよくないと開く。此人   は才智も衆に勝れ、然も温厚なる質にて、誰も此人に向ひ合ふ者は   あるまい。但だ老荘の道と云ふやうなことを好み、物の徹底す可き   所を、少しく残し置く僻がある。当面の問題を、当るに従つて切つ          えら   て除ける手際は豪いが、遠き慮りに於て少しく足らない。只だ此れ   が遺憾である。併し根本的に批評をすれば、残り多いことはあれど   も、今日の所、此人に勝る者はあるまい。若し此人を、其下に居て   たす   輔け、若しくは上に居て抑へる者があらば、珍らしき宰相の器であ   る、実に完人は少い。 と、慨嘆の意を漏らしてゐる。〔史学雑誌江戸幕府の有せし外国知識〕 而して定信の文政五年の日記の中には、   兎に角、外国の事は、後来必らず日本の重大なる憂ひとなるのであ   る。故に之に対する措置は、.もつと早くしなければならない。今   ははや三十年も手後れになつた。此事に就ては、賢相と称られたる   吉田の宰相(松平信明)の罪いと深い。〔同上〕 と記してゐる。此れは信明を批難せんが為めの言葉でなく、寧ろ外患の 対策を講ずるの機会に於て、斯く云うたのだ。 併し信明の在職の際は、将軍家斉も、決して放恣にはならなかつた。彼 は文化十四年八月二十九日、在職の儘、逝去した。而して未だ幾日をも 経過せざるに、彼が在職中抑へて許可しなかつたものは、悉く実行せら                       ついたち れた。乃ち中津藩主の奥平大膳大夫昌高は、九月朔に溜詰を命ぜられた。     しげひで 彼は島津重豪の子にて、奥平家を嗣ぎ、将軍家斉の御台所の弟なれば、 其の請を容れて、文化十四年三月、溜詰の格に進められ、尋いで侍従に        ひたすら 任ぜられたが。只管溜詰本席に昇せられんことを請はれたれども、溜間 は時ありて重き政務の諮問に与ることあれば、身持の整はざる者は、容 易に加はる可きにあらずとて、許されなかつたが、信明逝いて後、直ち に本席に進められた。 又た同十四日陸奥国棚倉城主小笠原主殿頭長昌は肥前国唐津へ、唐津城                           まさすけ 主水野和泉守忠邦は遠江国浜松城へ、浜松城主井上河内守正甫は棚倉へ 転封せしめられた。井上正甫は、去冬過失ありて、老中等其の転封を議 したが、信明はそれにも及ぶまじとて、百日の差控にて済ました。然る に今や彼は浜松から棚倉に移された。小笠原長昌は、其の領地棚倉の辺 鄙にして、国用大いに窮したが。当時羽振善き側衆申次林肥後守忠英の 同族であつたから、其の縁故からして、豊饒の唐津に移された。而して                       たゞあきら 水野忠邦は、九月十日寺社奉行に任ぜられ、水野忠成は信明の死する数 日前、八月二十三日西丸側用人より老中格に進み、翌文政元年二月二十 九日には、勝手掛となり、会計一切の全権を掌握するに至つた。是等は 何れも信明の志ではなかつたと推察せらる。 如何に松平信明が、剛直であつた乎は、当時側衆御用取次土岐豊前守 ともよし 朝旨は、将軍家斉の寵信厚く、老中以下皆な之を憚かり、老中と雖も、 初めて之に逢ふ時は、必ず此上宜敷と云ふ先例であつたが、信明独り 此言なく、且つ密かに贈遺する所なかつた。されば豊前守は、之を称 賛して、伊豆殿は、宰相中の宰相であると云うた。〔徳川十五代史〕   過し何年のことなりしや、予は在職の中、故豆州瑞龍院閣老にて   時めきたるとき、別荘を深川小名木沢に経営して、土木の功盛な   りと聞く。予が隠荘の園中、藤花に紫白の二つありて、各其花穂   の長四尺にこえたり、花時は最賞観に足れり。彼の豆州の経営に               おくりもの   当りて、諸親戚より木石の贈ありと聞き、且予専ら青雲の志あり   し時なりしかば、阿諛の意を以て用人に就て、この両種の藤花を   贈らんことを請ふ。豆州諾して且云ふ、直に夫丁をして移さしめ   よと。予乃ち運び且つ植へしむ。予心中に念ふ、この如き奇花大          きく   樹、豆州の喜を掬すべしと。後日対客の日、豆州と接す。定てこ   れを厚謝すべしとするに、豆州一言なし。予堪へかね先日進上の   藤はいかが、園中に植られしやと問ふ。其時豆州たゞ忝なきとの   み答へて、又他言なし。予愕然退き出づ。今に至て思へば、豆州   の賢賞すべく、予が愚ずべし。〔甲子夜話〕 此れは平戸藩主松浦静山の懺悔話しだ。要するに松平信明在職中は、 家斉の治世も、寛政の初政を兎も角も維持した。其の甚だしきに至つ たのは、実に文化の末から天保の始めにかけての事だ。

   
 


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