Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その21

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第四章 天保饑饉と百姓一揆
    二一 徳川時代に於ける強訴と一揆

一揆また 余儀なし 政治に影 響せる一 揆 安房万石 騒動 其他の強 訴 阿波武州 の一揆 飛騨一揆 右一揆の 鎮定 新潟一揆 右の結末

徳川時代に於て、強訴、若しくは百姓一揆は、亦た融合組織の欠陥から して、必然の出来事に数ふ可き一であつた。百姓一揆は、乃ち直接行動 だ。徳川時代の如き融合組織にては、偶ま目安箱などの制はあつたが、 然も其の実は下情を上達するの途、殆んど絶無でなければ、僅有だ。然 も其の疾苦を訴ふるの通路なきに於ては、暴力に訴ふるも、余儀なき次 第と云はねばならぬ。 徳川時代の始終を通観して、寛永年間に於ける島原一揆の如きは、事専 ら宗教に関し、之を単純なる百姓一揆と、同視す可きものではあるまい。 併し其中には、百姓一揆の意味合も、若干含まれてゐた。(参照 鎖国 篇、六三―八六)而して其の最も政治的に影響を与へたのは、天明年間 に於ける、江戸を始め、関東打崩し事件であつた。(参照 田沼時代、 九七―一〇一)。此れは直接とは云はざるも、間接に田沼失脚の因をな した。 其他正徳元年に於ける万石騒動なるものは、安房国安房郡二十七箇村に                          たゞむね 亘る石高凡そ一万石、徳川幕府旗本の寄合衆屋代越中守忠至の領民が、 其の奸吏川井藤左衛門の為めに虐げられ、此れが為めに六百余人の強訴 となり、その為め藤左衛門父子は死刑に処せら  れ、その他の役人も 罰を受け、屋代家は、其の領地を取り上げられた。此れは一揆ではなか つたが、それよりも能く成功した。 尚ほ他の例を挙ぐれば、承応元年に於ける下総佐倉の農民木内惣五郎の、 藩主堀田上野介正信に対する直訴があつた。此れは苛税に対する抗議で あつた。此れが為めに惣五郎及び其の家族は刑死せられた。又た天明五         まさみち 年、伏見奉行小堀政方の悪政に対する文殊九助、丸屋九兵衛訴訟の一件                      うば は、遂ひに其志を達し、小堀は同八年其の官を褫はれ、其の所領一万六 百三十石を没収せられた。 一揆に至りては、随処に是れあつた。宝暦六年には、阿波に藍玉騒動が あつた。明和元年の末から、二年の始にかけては、武州日光街道附近の 百姓一揆があつた。 安永二年の秋には、飛騨の騒動があつた。此れは代官大原彦四郎の暴政 に対し、大野、吉城二郡の百姓数千人、宮村に集合し、検地縄入の廃止 を叫び、その内七十人は江戸に出て、松平右京大夫に直訴し、入牢とな つた。 之を聞いた百姓共は、高山街道に関を設け、米塩雑穀類の高山に行くを 遮り、持久の策をとりて、訴訟の経過を待つた。而して十月には、彼等 の六十人程の者は、大原の陣屋を襲撃し、遂ひに郡上の青山家を始め、 大垣の戸田家其他より兵を出し、十一月には宮村の総攻撃となつた。而 して一揆は潰散し、内十七人は斬られ、数百人は追放、過料等の刑に処 せられた。而して検地ほ中止せられ、代官は更迭した。 天明三年には、新潟に一揆が起つた。それは当時新潟の領主であつた長 岡藩主牧野備前守が、莫大なる御用金を命じたが為めだ。当時涌井藤四 郎なる者は、納金延引を訴へたが、直ちに獄に投ぜられた。此に於て一 千余人の民衆は、天明三年八月二十六日の朝、期せずして代官所を襲う                        あた た。而して新潟奉行二人は、之を鎮撫せんと欲して克はず、遂ひに民衆 に向つて発砲せしめた。然も民衆の勢力は強大にして、奉行の一人は、 その為めに捕へられ、殴打せられた。而して遂ひに役人共は藤四郎を獄 中より出し、彼をして鎮撫せしめた。藤四郎は官倉を開らき、民衆を賑       もと はさんことを要めた。役人共は、直ちに之を実行した。 斯くて長岡藩では、御用金を中止せしめ、藤四郎と、他に自首したる岩 船屋佐次兵衛を、死刑に処し、代官其他の関係の郡役人を、或は罷免し、 或は追放し、而して漸く其の局を了した。 以上の如き例は、殆んど各所に是れ無きは無かつた。長防二州に於ける 一揆の顛末の如きは、既記の通りである。〔参照 雄藩篇、五五―五九〕

   
 


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