Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『「近世日本国民史 27 文政天保時代』

その24

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第五章 少壮時代の大塩
    二四 大事件の意義

意義の重 大 幕府を相 手の事件 増上寺焼 打陰謀 右徒党の 処分 大塩事件 動機 大塩の思 想 山県大弐 の思想に 近し 幕府に向 つての一 撃 星巌詠史 幕府反抗 運動の魁

  此れから天保八年二月大塩平八郎事件に就て語る。 此の事件其れ自身は、唯だ大阪市中に於ける、一個の焼打に過ぎなかつ た。単に其の形跡から見れば、天保七年八月の甲州に於ける、百姓一揆 にも及ばなかつた〔参照、二三〕。されど其の事件の意義は実に重大だ。 何となれば甲州一揆は其の相手とする所、単に富豪とか、代官とか云ふ に過ぎなかつたが、大塩事件は、其の対象として、直ちに幕府を目標と したからだ。 慶長五年関ケ原事件以来、大にせよ、小にせよ、幕府を相手に蜂起した                             しば のは幾許もあるまい。大阪冬夏の両陣、寛永年間島原の役等は姑らく措 き、其他は慶安四年七月に於ける由比正雪事件(参照 思想篇、四―一 四)及び承応元年九月に於ける、増上寺焼打の陰謀事件に過ぎなかつた。 正雪の事は、既に記したれば、今ま茲に云はず。増上寺焼打陰謀は、即 ち承応元年九月、崇源院殿(秀忠御台所)廿七回忌にて、五日より十五 日迄、法事を営みつゝある間、同十三日に至り、城半左衛門の家来、長 崎刑部左衛門なる者、松平伊豆守に訴へ出で、別木(戸次)庄左衛門、 林戸右衛門、三宅平六、土岐与左衛門、藤岡又十郎と云ふ浪人徒党を企 て、来る十五日、法事終て後、増上寺の風上より放火し、老中火を救は んと出馬ある所を、鉄砲にて打ち落し、其外徒党の者、江戸中に放火し、 天下の変を見る可しとの事であつた。 斯くて詮議の上、別木(戸次)、林、三宅、藤岡、及び水野美作守家来 石橋源左衛門は、浅草にて磔に掛けられ、其の従類何れも斬首せられ、 土岐は逃亡したが、身の置所なき儘、増上寺切通しにて自殺した。〔参 照 思想篇、一五〕。此の一件は固より正雪程のものでもなく、只だ単 に浪人者共等の悪戯の嵩張りたるものと見ても、差支あるまい。何れに しても幕府顛覆などの大野望ありたるものとは思はれない。 大塩事件とても、大塩彼自身が、幕府を打滅して、白から将軍とならん とする抔の、大望を懐いたものとは思はれない。されど彼は大阪に事を 起し、天下の変を見んとした。而して其の動機の何れにありたるにせよ、 前後の分別もなく、一時に爆発したのでなく、少くとも若干の準備と、 考慮の時間とがあつたことは、疑ふ可き余地がない。別言すれば、彼は 兎も角も、金城鉄壁と目せられたる幕府に向つて、直接行動を働き掛け たものだ。 大塩は本来幕府の小吏だ。即ち大阪天満の与力だ。されば彼の意見が、 宝暦明和事件の竹内式部や、山県大弐と、何等脈絡の相ひ通じたる点な きは勿論、其の思想に就ても、殆んど共通の点は無い筈だ。彼には尊王 斥覇の心ある可き様なく、況んや朝廷の為めに、幕府を倒さん抔との考 は、とても是れ無かる可き筈だ。 されど其の所謂る檄文を見れば、竹内と云はざる迄も、山県大弐とは、 頗る思想の似通ひたる点がある。而して彼は神武帝の御政道の通りとか、 天照皇大和の時代に復するとか、頻りに復古の意見をほのめかしてゐる。 此れは必らずしも大塩が当時に於て、特別に案出したる意見でなく、寧 ろ之によりて如何に当時の社会思潮が、此の方面に向つて趨りつゝあつ たかを知る可きであらう。 されば大塩の此挙を以て、朝廷の為めに、幕府を討つの手始めと云ふは、 其の正鵠を得たるものではないが、然も公然幕府に向つて、其の一撃を 加へたる事実は、之を非認する訳には参るまい。                   当時の詩人、梁川星巌が、題を詠史に藉りて、    蒹葭無際水悠悠。二百年来覇気収。尚剰金湯為保障。   誰名仁義弄戈矛。清平有事是天警。合党雖多非国讎。   君子原情定功罪。賈紘舷妄誕豈春秋。   ばくち   かうしや   驀地風涛舞老鯨。車迅発百雷声。石頭従昔例縦火。                     じゆし   京口於今能用兵。為惜先生空講道。可嗤豎子謾成名。       そんいん   捷書只報孫死。不道冥鴻万里行。                      ちか と詠じたのは、聊か其事の真相を得たるものに庶幾い。何れにもせよ二 百五十年間、太平の際、幕府に向つて蜂火を挙げたるものは、大塩の此 挙を以て、嚆矢とする。されば大塩の騒動は、単純の百姓一揆でなく、 寧ろ幕府反抗運動の魁けと見るが、通常なる観察であらう。

   
 


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