意義の重
大
幕府を相
手の事件
増上寺焼
打陰謀
右徒党の
処分
大塩事件
動機
大塩の思
想
山県大弐
の思想に
近し
幕府に向
つての一
撃
星巌詠史
幕府反抗
運動の魁
|
此れから天保八年二月大塩平八郎事件に就て語る。
此の事件其れ自身は、唯だ大阪市中に於ける、一個の焼打に過ぎなかつ
た。単に其の形跡から見れば、天保七年八月の甲州に於ける、百姓一揆
にも及ばなかつた〔参照、二三〕。されど其の事件の意義は実に重大だ。
何となれば甲州一揆は其の相手とする所、単に富豪とか、代官とか云ふ
に過ぎなかつたが、大塩事件は、其の対象として、直ちに幕府を目標と
したからだ。
慶長五年関ケ原事件以来、大にせよ、小にせよ、幕府を相手に蜂起した
しば
のは幾許もあるまい。大阪冬夏の両陣、寛永年間島原の役等は姑らく措
き、其他は慶安四年七月に於ける由比正雪事件(参照 思想篇、四―一
四)及び承応元年九月に於ける、増上寺焼打の陰謀事件に過ぎなかつた。
正雪の事は、既に記したれば、今ま茲に云はず。増上寺焼打陰謀は、即
ち承応元年九月、崇源院殿(秀忠御台所)廿七回忌にて、五日より十五
日迄、法事を営みつゝある間、同十三日に至り、城半左衛門の家来、長
崎刑部左衛門なる者、松平伊豆守に訴へ出で、別木(戸次)庄左衛門、
林戸右衛門、三宅平六、土岐与左衛門、藤岡又十郎と云ふ浪人徒党を企
て、来る十五日、法事終て後、増上寺の風上より放火し、老中火を救は
んと出馬ある所を、鉄砲にて打ち落し、其外徒党の者、江戸中に放火し、
天下の変を見る可しとの事であつた。
斯くて詮議の上、別木(戸次)、林、三宅、藤岡、及び水野美作守家来
石橋源左衛門は、浅草にて磔に掛けられ、其の従類何れも斬首せられ、
土岐は逃亡したが、身の置所なき儘、増上寺切通しにて自殺した。〔参
照 思想篇、一五〕。此の一件は固より正雪程のものでもなく、只だ単
に浪人者共等の悪戯の嵩張りたるものと見ても、差支あるまい。何れに
しても幕府顛覆などの大野望ありたるものとは思はれない。
大塩事件とても、大塩彼自身が、幕府を打滅して、白から将軍とならん
とする抔の、大望を懐いたものとは思はれない。されど彼は大阪に事を
起し、天下の変を見んとした。而して其の動機の何れにありたるにせよ、
前後の分別もなく、一時に爆発したのでなく、少くとも若干の準備と、
考慮の時間とがあつたことは、疑ふ可き余地がない。別言すれば、彼は
兎も角も、金城鉄壁と目せられたる幕府に向つて、直接行動を働き掛け
たものだ。
大塩は本来幕府の小吏だ。即ち大阪天満の与力だ。されば彼の意見が、
宝暦明和事件の竹内式部や、山県大弐と、何等脈絡の相ひ通じたる点な
きは勿論、其の思想に就ても、殆んど共通の点は無い筈だ。彼には尊王
斥覇の心ある可き様なく、況んや朝廷の為めに、幕府を倒さん抔との考
は、とても是れ無かる可き筈だ。
されど其の所謂る檄文を見れば、竹内と云はざる迄も、山県大弐とは、
頗る思想の似通ひたる点がある。而して彼は神武帝の御政道の通りとか、
天照皇大和の時代に復するとか、頻りに復古の意見をほのめかしてゐる。
此れは必らずしも大塩が当時に於て、特別に案出したる意見でなく、寧
ろ之によりて如何に当時の社会思潮が、此の方面に向つて趨りつゝあつ
たかを知る可きであらう。
されば大塩の此挙を以て、朝廷の為めに、幕府を討つの手始めと云ふは、
其の正鵠を得たるものではないが、然も公然幕府に向つて、其の一撃を
加へたる事実は、之を非認する訳には参るまい。
か
当時の詩人、梁川星巌が、題を詠史に藉りて、
蒹葭無際水悠悠。二百年来覇気収。尚剰金湯為保障。
誰名仁義弄戈矛。清平有事是天警。合党雖多非国讎。
君子原情定功罪。賈紘舷妄誕豈春秋。
ばくち かうしや
驀地風涛舞老鯨。車迅発百雷声。石頭従昔例縦火。
じゆし
京口於今能用兵。為惜先生空講道。可嗤豎子謾成名。
そんいん
捷書只報孫死。不道冥鴻万里行。
ちか
と詠じたのは、聊か其事の真相を得たるものに庶幾い。何れにもせよ二
百五十年間、太平の際、幕府に向つて蜂火を挙げたるものは、大塩の此
挙を以て、嚆矢とする。されば大塩の騒動は、単純の百姓一揆でなく、
寧ろ幕府反抗運動の魁けと見るが、通常なる観察であらう。
|
|