Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.2.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『「近世日本国民史 27 文政天保時代』

その25

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    二五 大塩平八郎の告白 (一)

大塩の身 柄 平八郎の 先祖 祖先の跡 目相続 大塩の自 語 自らの性 質 志三変 祖先の志 を継がん とす 志立たん と欲して 能はず 儒に就て 学ぶ

  大塩事件を叙するに際しては、、先づ大塩平八郎其人に就て、語る可き 必要がある。抑も彼は何者ぞ。彼は大阪天満の町与力の一人だ。 大阪には東西に町奉行あり、各々力三十騎、同心五十人之に附属してゐ る。奉行の官職は、上司の命にて更迭するが、与力同心は、居付だ。表 向は一代限にて内実は世襲だ。与力は高二百石、現米に換算して八十石、 同心は十石三人扶持。地面も前者は五百坪、後者は二百坪を、天満及び 川崎に与へられた。大塩の家は天満橋筋長柄町を、東へ入つた角から二 軒目の南側で、所謂る四軒屋敷の一であつた。 彼の家は今川氏の一族で、祖先波右衛門は、今川氏没落後、徳川家康に 仕へ、小田原役には敵将足立勘平を刺して、家康より持弓を賜はり、又 た知行所を、伊豆の塚本村に与へられた。其後尾張義直に属し、嫡子其 禄を伝へ、季子は大阪に出でゝ与力となつた。平八郎の家がそれだ。 平八郎後素は寛政五年正月二十二日、大阪天満川崎四軒坊に生る。祖父    なります 政之丞成余へ父平八郎敬高。寛政十一年五月十二日、父敬高三十歳にて 歿した。寛政十二年九月二十日母を喪うた。文政元年六月二日、祖父成 余六十七歳にして逝いた。此に於て彼は番代を申付られ、の跡目を相続 した。 彼の佐藤一斎に与へたる書は、彼の自伝と云ふも妨げなき程、能く自か ら語つてゐる。                               すゐそ   夫れ僕は本遐方の一小吏、只だ令長の指揮に従ひ、而して獄訟の間   に抗顔し、以てを保ち年を終へ、他に求むる無くして可也。然り而し   て此に従事せずして、而して独り自から志を尚び、以て道を学ぶ。世                             あゝ   に容れられず。而して人に愛せられず、豈に左計ならず乎。吁、僕を                                むべ   知る者は其志を憫み、僕を知らざる者は、左計を以て之を罪す。宜な   り矣。   而して僕の志三変有り焉。年十五、嘗て家譜を読む、租先は即ち今川                      氏の臣にして其族也。今川氏亡後、贄を我が神祖に委ね、小田原役、   将を馬前に刺し、而して之を賞するに御弓を以てし、又た采地を豆州   塚本邑に賜ふ。大阪冬夏役に当りて、既に耄す矣。軍に従ひ其志を伸                     まも   ぶる能はず、而して徒らに越後柏崎堡を戌る而已。建後終ひに尾藩   に属し、而して嫡子其家を継ぎ、以て今に至る。季子乃ち大坂の市吏   と為る、此れ即ち我が祖也。僕是に於て慨然深く刀筆に従事し、獄卒   市吏に伍するを以て恥と為す矣。而して其時の志は、則ち功名気節を   以て祖先の志を継がんと欲する者の如し。而して居恒鬱々として楽し                                 まざるの情、実に劉仲晦の未だ志を得ざるの時の念と、亦た奚んぞ異              ならむ。而して器焉れに比すると謂ふには非らざる也。而して父母、   僕七歳の時、倶に没す矣。故に早く祖父の職を承けざるを得ざる也。           しやい               しよと   日に接する所は、赭衣の罪囚に非らざれば、必らず府吏胥徒而已。故                                 に耳目聞見、栄利銭穀の談と、号泣愁冤の事と与ならざるは莫し。                  そら   さき   文法惟だ是れ熟し、條例惟だ是れ諳んず。向者の志、立てんと欲して                         かつ   立つ能はず、依違因循、年二十を踰へて、吏人未だ甞て学問する者有   らず。故に過失ありと雖も、益友の之を誡しむる者無し。其勢ひ欺罔、   非僻、驕謾、放肆の病を発せざるを得ざる也。而して是非の心無きは   人に非ず、竊かに自ら心に問ふ、則ち作止語黙、罪を理に獲る者蓋し                       のみ   夥し矣。要は苔杖の下に在る赭衣と与に一間耳。而して羞悪の心無き   は亦た人に非ず。彼の罪を治むる也、則ち己れが病を治めざる可らざ           いかん    ま   る也。病を治むる奈何せん。当さに儒に従うて以て書を読み、理を窮                                 めて而して後愈ゆべき也矣。故に儒に就て学問す焉。是に於て夫の功   名気節の志、乃ち自から一変す矣。 以上は彼が自から学問の行程を告白したるもの。即ち当初功名気節を以て、 祖先の志を継がんとし、爾後儒に就きて問学し、功名気節の志、乃ち自か ら一変したる所以を陳べてゐる。

   
 


井上哲次郎「大塩中斎」 その8


「近世日本国民史」目次/その24/その26

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