大塩の身
柄
平八郎の
先祖
祖先の跡
目相続
大塩の自
語
自らの性
質
志三変
祖先の志
を継がん
とす
志立たん
と欲して
能はず
儒に就て
学ぶ
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大塩事件を叙するに際しては、、先づ大塩平八郎其人に就て、語る可き
必要がある。抑も彼は何者ぞ。彼は大阪天満の町与力の一人だ。
大阪には東西に町奉行あり、各々力三十騎、同心五十人之に附属してゐ
る。奉行の官職は、上司の命にて更迭するが、与力同心は、居付だ。表
向は一代限にて内実は世襲だ。与力は高二百石、現米に換算して八十石、
同心は十石三人扶持。地面も前者は五百坪、後者は二百坪を、天満及び
川崎に与へられた。大塩の家は天満橋筋長柄町を、東へ入つた角から二
軒目の南側で、所謂る四軒屋敷の一であつた。
彼の家は今川氏の一族で、祖先波右衛門は、今川氏没落後、徳川家康に
仕へ、小田原役には敵将足立勘平を刺して、家康より持弓を賜はり、又
た知行所を、伊豆の塚本村に与へられた。其後尾張義直に属し、嫡子其
禄を伝へ、季子は大阪に出でゝ与力となつた。平八郎の家がそれだ。
平八郎後素は寛政五年正月二十二日、大阪天満川崎四軒坊に生る。祖父
なります
政之丞成余へ父平八郎敬高。寛政十一年五月十二日、父敬高三十歳にて
歿した。寛政十二年九月二十日母を喪うた。文政元年六月二日、祖父成
余六十七歳にして逝いた。此に於て彼は番代を申付られ、の跡目を相続
した。
彼の佐藤一斎に与へたる書は、彼の自伝と云ふも妨げなき程、能く自か
ら語つてゐる。
すゐそ
夫れ僕は本遐方の一小吏、只だ令長の指揮に従ひ、而して獄訟の間
に抗顔し、以てを保ち年を終へ、他に求むる無くして可也。然り而し
て此に従事せずして、而して独り自から志を尚び、以て道を学ぶ。世
あゝ
に容れられず。而して人に愛せられず、豈に左計ならず乎。吁、僕を
むべ
知る者は其志を憫み、僕を知らざる者は、左計を以て之を罪す。宜な
り矣。
而して僕の志三変有り焉。年十五、嘗て家譜を読む、租先は即ち今川
し
氏の臣にして其族也。今川氏亡後、贄を我が神祖に委ね、小田原役、
将を馬前に刺し、而して之を賞するに御弓を以てし、又た采地を豆州
塚本邑に賜ふ。大阪冬夏役に当りて、既に耄す矣。軍に従ひ其志を伸
まも
ぶる能はず、而して徒らに越後柏崎堡を戌る而已。建後終ひに尾藩
に属し、而して嫡子其家を継ぎ、以て今に至る。季子乃ち大坂の市吏
と為る、此れ即ち我が祖也。僕是に於て慨然深く刀筆に従事し、獄卒
市吏に伍するを以て恥と為す矣。而して其時の志は、則ち功名気節を
以て祖先の志を継がんと欲する者の如し。而して居恒鬱々として楽し
な
まざるの情、実に劉仲晦の未だ志を得ざるの時の念と、亦た奚んぞ異
こ
ならむ。而して器焉れに比すると謂ふには非らざる也。而して父母、
僕七歳の時、倶に没す矣。故に早く祖父の職を承けざるを得ざる也。
しやい しよと
日に接する所は、赭衣の罪囚に非らざれば、必らず府吏胥徒而已。故
な
に耳目聞見、栄利銭穀の談と、号泣愁冤の事と与ならざるは莫し。
そら さき
文法惟だ是れ熟し、條例惟だ是れ諳んず。向者の志、立てんと欲して
こ かつ
立つ能はず、依違因循、年二十を踰へて、吏人未だ甞て学問する者有
らず。故に過失ありと雖も、益友の之を誡しむる者無し。其勢ひ欺罔、
非僻、驕謾、放肆の病を発せざるを得ざる也。而して是非の心無きは
人に非ず、竊かに自ら心に問ふ、則ち作止語黙、罪を理に獲る者蓋し
のみ
夥し矣。要は苔杖の下に在る赭衣と与に一間耳。而して羞悪の心無き
は亦た人に非ず。彼の罪を治むる也、則ち己れが病を治めざる可らざ
いかん ま
る也。病を治むる奈何せん。当さに儒に従うて以て書を読み、理を窮
い か
めて而して後愈ゆべき也矣。故に儒に就て学問す焉。是に於て夫の功
名気節の志、乃ち自から一変す矣。
以上は彼が自から学問の行程を告白したるもの。即ち当初功名気節を以て、
祖先の志を継がんとし、爾後儒に就きて問学し、功名気節の志、乃ち自か
ら一変したる所以を陳べてゐる。
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