Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その4

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

 四 水野忠成(一)

忠成の父 忠友 忠成の現 金 閑地に就 く 忠成の立 身 忠成の糊 塗術 将軍の寵 眷を得 馬具下賜 忠成上京 格外恩賜 家柄 謙抑の道 を知らず 御馬具拝 領 水野家先 祖 忠友の立 身

     たゞあきら 水野出羽守忠成に就て語らんには、先づ少しく其の養父水野出羽 守忠友に就て、一言する必要がある。水野忠友は、田沼意次残党 の一人とも云ふ可き者だ。彼は明和五年十一月若年寄申付られ、 膠手用掛を兼任した。安永六年四月、側用人申付られ、二万石の 高に加増城主となり、同年十一月、駿河国沼津城地を授与せられ、 築城申し付られた。天明元年九月老中格に進み、側用人は是迄通 り相勤むべき旨申付られた。而して同月又た勝手方申付られた。 同五年正月加判に列した。而して田沼意次失脚の後、天明七年十 二月勝手方免ぜられ、同八年三月に至りて、加判の列を免ぜられ た。          おのこ 彼が如何に現金の漢であつたかは、田沼意次全盛の時代には、其             なづ 子を聟養子として、忠徳と名け、天明六年八月田沼意次罷めらるゝ や、翌九月には離縁して、実家に差し戻した。 斯くて忠友は、定信執政の際は、閑地に退いてゐたが、定信去り て後、四年目、即ち寛政八年十一月再び出でゝ加判の列に就き、 西の丸―将軍嗣子家慶―附となつた。斯くて享和二年九月十九日 逝いた。其の養子が、出羽守忠成だ。                         たゞちか 忠成は旗本岡野肥前守知暁の二男だ。彼は水野勝五郎忠隣の養子 となり、天明五年従五位下に叙し、大和守に任じたが、同六年十 二月、更らに忠友の聟養子となり、享和二年十一月家督を相続し、 出羽守と改めた。而して同月奏者番申付られ、同三年八月、寺社 奉行加役申付られ、文化三年十月には若年寄に進み、同九年四月、 側用人となり、将軍家斉の嗣子家慶附となり、同十四年八月には 老中格となり、文政元年二月には勝手用掛となり、同年八月には 加判の列に進み、同四年十一月には勝手向出精に付、一万石加増 せられた。而して同十二年十二月には、前同様の理由もて、重ね て一万石加増せられた。而して天保五年二月に逝いた。享年七十 一。 水野忠成は決して田沼程の手腕家でもなく、又た政策上何等の経 綸もなく、抱負もなかつた。然も彼の迎合術に於ては、侮る可か          びほう      こうあん とうしゆ らざる腕前があり、弥縫、糊塗、一時の苟安を偸取するには、尋 常ならざる技倆を持つてゐた。 当皆時の附句に曰く、   水の出てもとの田沼となりにける と。如何にも能く穿つてゐる。寛政改革の政も、彼が執政となり て、其権を専らにする文政の頃は、殆んど全く逆転して、其の弊 を改むるに至つた。   そろ\/と柳に移る水の影 此れは水野が柳沢の二の舞をなす徴候を諷したる句だ。然も彼は 柳沢程の辣腕を持たなかつた。            かたじけな 彼が如何に将軍の寵眷を忝くしたるかは、左記によりても、推察 せらる。   閣老水野羽州は、当時の寵眷並び無き人なり。この七月(文   政八年)初旬、御座間にて命ぜられしと伝聞するは、   御勝手向、年来出精、金銀吹替、御勝手取直しにも相成候間、                    おんあぶみ   何ぞ被下候思召之処、此度上京に付、御鐙、並御紋付御鞍覆   被下、上京旅中計にも無之、格別の家柄にも有之候に付、平   常も相用候様可致候。   上京とは松平防州石州浜田新所司代の引渡として上らるゝ也。   又別格の家柄とは、伝通院(家康生母)御由緒の家なればな                      ひきうま   り。又聞く、七月廿八日より恩賜の鞍覆を牽馬にかけて用ひ   らると、又七夕の日より乗物も、腰黒に替りしと聞く。   又羽州上京の発途は、八月十八日、木曾路より入洛、所司代        をは   引渡のこと畢り、堺、奈良、伏見、伊勢等、奉行持の所々残   らず巡見して、東海道を還り、沼津へ三日滞留、日程五十日   ばかり、帰府十月に及ばんとぞ取沙汰す。信州松本も家の旧   領なれば、先隴を拝すとて、是も立寄らると云ふ。沼津は廃   城の再興にして、安永の始め、故羽州忠友閣老のとき、台命   ありて新築せしゆゑ、今の羽州は、家督直に御役に入りけれ   ば、此度が初入部なる可し。   或人語る、羽州今度の恩賜は格外のことなり。謙遜せば、命    かたじけな   の辱きを拝すれども、府内にては用ひず。何ぞ御大礼等の   しきしやう   式正に係りて、布衣、白丁着など召具す可き節ばかりに、御   紋鞍覆を用ひば、如何にも敬上の意も厚く見え、世人も奥床   しく思ふらん。   又この新命金銀吹替と云ことの入りしを、有司の過なりと評   する者あり。   又家柄と云は、鎌倉、足利頃の旧家か、さも無きは御当家御   血続の人をさす詞にて、外戚女縁を家柄と称せられしは、珍   しき一と云。   且又これ迄遠きにせよ、近きにせよ、御血族なくて、御絞の   武具を恩許ありしは、例無しと云ふことなり。〔甲子夜話〕 以上は平戸藩主松浦静山の所記にして、此の或人の説は、自家の 説か、左なくば彼の最も親密なる友人林述斎の説であらう。 兎に角水野が将軍の寵眷を専らにし、毫も自から謙抑するの道を 知らなつたことは、当時の物議を醸したるに相違あるまい。上記 は只だ其中の一事件たるに過ぎないであらう。

      ――――――――――――――――――     御馬具拝領、水野家由緒 出羽殿御馬拝領の事は家柄に附て、永く御府内にても用ふべ きとのよし、先月二十八日、初て是を用ひらる。殊に此度上 京、はれの用たるべし。彼家柄と申は、先祖宇衛門大夫忠政 尾州小川、三州刈屋等の城主にて、京都将軍の昔より古き大 名なれば、其の贈大納言広忠卿の室家と成せ給ひ、天文十一 年十一月二十六日、三州岡崎城に於て神君を生せ給ひ、同十 三年御離別、久松佐渡守俊勝へ再嫁、三男二女を産せらる。 即今の松平隠岐守、松平越中守等の祖なり。慶長七年八月二 十九日、京都二條の城に於て逝去、智恩院へ葬り奉る。後台 命に依て、御遺骸を江戸小石川極楽山宗慶寺に移し、今の地 に改葬して、伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼と解し奉る。かゝ る御外戚の御由緒を以て、嫡流日向守勝成家は、元禄十一年 まで備後福山十万石を領し、出羽殿家は、隼人正忠恒代、享 保十年迄信州松本七万石を領しけるが、皆故有て家禄を減郤 せらる。忠恒の子忠友、明和五年十一月五日五千石御加増、 三州大浜一万三千石となり、安永六年四月二十一日七千石御 加増、二万石、駿州沼津へ移り、天明元年九月十八日五千石 御加増、二万五千石、御側より老中格となり、同五年五月二 十九日五千石御加増三万石、老中に昇進せらる。今の出羽殿 (忠成)は即故出羽殿の養子なり。此程の落首に「あたりに は人もなし地の鞍鐙葵の御役目にたつの口」。〔道聴塗説〕   ――――――――――――――――――

   
 


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