Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その31

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    三一 長官高井と大塩

長官と相 得る 高井大塩 の三大功 績 耶蘇邪党 の捕索 猾吏姦卒 の摘発 堕落僧侶 の逮捕 京兆南都 亦風靡 高井賛畢 竟大塩の 賛 頼山陽大 塩送序 大坂の難 治 山陽の大 塩賛 大塩の盛 名 高井能く 大塩を用 ふ 彦坂和泉 守の大塩 愛用 和泉守の 高井忠告

大塩は仕合せにも、其の長官と相得た。高井山城守実徳は、文政三年十一 月十五日、大塩が二十八歳の時、山田奉行より、大阪東町奉行に転任し来 つた。高井は既に六十を過ぎたる老人にて、大塩とは其の年齢に於ては、 倍を踰えてゐた。彼は如何なる眼識もて、大塩を信任した乎。爾来天保元 年七月、大塩が三十八歳にして、仕を致し隠居する迄、両人は殆んど水魚 の関係を繋いでゐた。而して大塩は此の十年間に、与力として、頗る名声 を博した。それには博するだけの仕事をした。その重なるものは、所謂る 三大功績であつた。 此事に就ては、大塩が高井の天保元年辞職の表を上りて、未だ允されざる を聞知し、自から長官と進退を共にするの義によりて、骸骨を乞うたるに 際し、招隠の詩を賦したる、其の序文中に、其の要領を掲げてゐる。                         すなは   昇平二百有余歳、上下事無し、文政十丁亥の歳、廼ち吾が官長高井公     のぞ   任に莅むの七年也。是歳の夏四月、公余に命じて耶蘇の邪党を、京摂   の間に捕索し、以て之を窮治せしむ。日ならずして招伏就る焉。公之   を府に申呈し、府、之を東都の憲台に聞す、三年の久しきを経て而し                             て発落す矣。妖邪庶民を煽誘するの害、是に於て乎稍や息む。   十二年己丑春三月、公又た余に命じて、滑吏姦卒の豪強と与に潜かに                隠交を通じ、以て政を蠹し、人を害する者を糾察せしむ。而して其の   わうれん   汪連する所、要路の人の臣僕に及ぶ。歴世の官司之を知らざるに非ず、                         しか   蓋し怖れ且つ憚る所ありて、而して之を遁す歟。爾るが若きは世を憂   へ、民を思はざるの甚だしき者也。余公の忠憤に感じ、終ひに禍福利                         おほ   害を度外に置き、潜かに図り密に策し、疾雷耳を掩はざるの遺意を施                  あは   し、以て其の伏を摘し、其の姦を発く。魁首自刄し、余党各刑に藁街   に就く。死する者若干人、其贓を挙ぐるに三千金あり。皆是れ民の   かうけつ   膏血也、之を散じて以て肇めて煢独を振恤するの法を建て、姦猾庶民    としよく   を蠧蝕するの害、是に於て乎又た漸除かれ、而して無告人も亦た蘇息      ちか   するに庶幾し矣。   十三年庚寅春三月、公又た余に命じ、浮屠の汚行を沙汰せしむ。夫れ   浮屠を検束に与らしめざる茲に幾年ぞ。故に肆然として婦女を犯し魚                       せんせいをくわい   鳥を食ふ焉。不頼の少年よりも甚だし。其の羶腥汚穢、邦を挙げて皆   然り矣。徒に此の一方のみならざる也。若し急に之を理めば、則ち必   らず繁刑に堪へず。故に訓戒の令を敷き、既に再三に及ぶ。終ひに其                                 よはひ   の悛めざる者を逮捕する猶数十人。尽く海島に流竄し、邦人と与に歯   せざらしむ、僧風是に於て一変す矣。                                 たん   且つ京兆(京都)南都(奈良)界浦(堺)亦た風靡す。其の官司各貪   たうり しりぞ   饕吏を黜け、姦邪の僧を誅す、皆な公(高井)の後に出でざるは無し。   然らば則ち公の拳、諸衙の嚆矢なる哉。 惟ふに大塩が、長官高井を賛するは、畢竟自から賛する所以であらう。而 して高井本来温厚の士、恐らくは如上の三大事件も、高井の発意より出で 来りたるものでなく、大塩自から其の発意者となり、之を長官高井に申請 し、其の同意を経て、断行したものであらう。左なくとも両人合議の上の 事と見る可きものであらう。尚ほ大塩の友人、頼山陽が、大塩の官を罷め、 尾張の宗家を訪ふを送るの序文にも、亦た此事を特筆してゐる。   方今海内勢三都に偏し、三都の市、皆な戸有り、而して大坂最も劇に   して、且つ治め難しと称す焉。蓋し地濶絶し、大府にして而して商賈   の窟する所と為る。富豪の廃居に、王侯其の鼻息を仰ぎ、以て憂喜を   為すに至る。尹の来り治むる者、更迭常ならざる者。乃ち属吏子孫に            襲いで故事を諳らんず、掌故の如し。而して尹之を仰いで成る、成る                        りよえん ひ  かつみんさう   に賄を以てす。上に蠹し、下に浚す、猾賈に結び閭閻を延く、黠民爪      牙と為る。乃ち藩服の要人或は之が支党と為り、声気交通するに至る。                      こうゆ   君心ろに之を知る、而して主客の勢懸り、苟傍観す。吏良有りと雖   も、衆寡敵せず、浮沈容るゝを取る而已。                                 たゆ   近時に至るに及び、乃ち吾が大塩子起有り、吏群に奮ひ、独立して撓                              のぞ   まず、克く其の姦を治め、国家の為めに、二百余年の弊事をくと云   ふ。蓋し上に高井君の尹為る有り、能く子起を用ゆ、子起以て其の手                                    足を展ばすを得る也。子起の始めて密命を受くるや、自ら度る、事済                                わづら   らば国を補ふ、済らざれば家を破る、家に一妾有り、之を出して累は              はかりごと   す所無らしむ。然して後籌を運らし策を決す、指顧親信、発摘意外に                     なら         こりつ   出づ。其の封家長蛇為る者を斃し、首を駢べて戮に就く、内外股栗す。   乃ち其贓を挙げて三千両金を得たり。曰く、是れ民の膏血也、尽く之             けいどく   れを小民に給し、因て煢独を振済す、事己丑(文政十二年)の春にあ   り。是より先き丁亥(文政十年)妖民の番教を持する者を治む、尽く         種類を抉ぐる。庚寅(天保元年)又た浮屠の汚行者を汰し、先づ戒勅       あらた   を申べ、俊めざる者は流竄す。群邪屏息、京畿諸衙に至るまで、風を         しりぞ   承け、貪墨を黜け、公廉を奨む。此時に当りて子起の能名三都の間に   震ふ。其名を呼んで以て相るに至る。 此の如く大塩をして、其の盛名を三都の間に震はしむるに至りたるは、全 く其の長官たる、大阪東町奉行高井山城守の寛裕にして、能く大塩に専任 して、疑はなかつた為めと云はねばならぬ。

      ――――――――――――――――――    高井の大塩駕御 大塩後素は大坂東御役所の属吏也。予外祖父なる和泉守、この東庁 に尹たる十年間、この平八郎を特に愛して、始終側近く呼び置て使 用し、平八々々と重宝にせしゆへ、与力仲間にても大にこれを娼疾 して御奉行さまの御小間遣ひとあだ名をせし程なり。然れども和泉 守鑑する所あつて、彼れに腹心をあらはさず、予が父なるもの、そ の頃幼なりしを、平八に嘱して素読を受けしめ、父に命じて曰、汝 を平八に託して、彼が宅に通学せしむるの條、よく眼をその室中に 注て物色せよと、ひそかに戒厳せしに、平八よくこれを黙識心通し て悟り得、父に接する、敬礼を悉くして失はず。然るに和泉守同役 荒尾但馬守が譖に逢ひ帰府を命ぜられて、小普請支配に転じ、即日 御目附の高井隼之助これに代つて大坂の市尹を命ぜらる。この日営 中にて隼之助に後事を託するの序謂て曰、東庁の与力に大塩平八郎 なる者あり。学文も有之候が、一体天賦の敏捷なる、実に無声に聴 て無形に見るの俊速なるは聞一悟十也。乍去油断のならぬくせもの なれば、其御心得御注意有之度と忠告せしに、高井氏よくこれを領 し得て控御せしゆへ、平八又その伎倆を逞ふして、切支丹捕縛等の 大功を建てたり。後年高井氏帰府の後、予が父に面する毎に、尊大 人の忠告によつて汗血馬を鞭策し終りて候と謝しけると云々。和泉 守及び高井氏ともに、彼れが事を挙げぎるに先だちて賛を易へたる により、天保八年二月十九日の兵火は知らず。〔燈前一睡夢〕   ――――――――――――――――――

   
 


幸田成友『大塩平八郎』 その172


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