Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その30

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    三〇 大塩・坂本問答

大塩平生 の心掛け 坂本に向 て学を勧 む 又城中守 禦の工夫 を語る 所謂大塩 の工夫 大塩の思 慮 必死とな りて働く 人々 坂本の感 心 坂本の言 の公平

尚ほ大塩平八郎が、平生の心掛け如何は、左記によりて其の一斑を知るを 得可し。   此後(文政四年四月、最初柴田と与に訪問の後)貞(玉造口与力坂本   鉉之助)一人参候節、頻に貞に学文を勧め、学文は貧苦の中にて、反   て成就するものなり。天満組の与力六十、一人も学文の出来るものは   無之、玉造、京橋の御組の方でなければ、学文は出来ぬと申。扨申に   は、貴兄(坂本〉は、御城附の与力に而、武役専一の御方、僕(大塩)   は町与力にて、獄吏なれば、平日の公務は、甚懸隔たる事に候へ共、   何事ぞと申節は、御城附は勿論、獄吏の僕等迚も、皆一同に此御城を   警衛して、西三十三ケ国を押へ申より外無之と存候。   左様之節に至ては、貴兄之御頭様は、(城代)万石以上の諸侯に候へ   ば、相応の家臣等も有之、戦場の用に相立可申歟。是迚も一概当てに   は成不申、又僕が頭は、纔に三百俵や五百俵の小身にて、普代の家臣   迚も無之、多くは役中丈け平常の公務に馴れたる者を家来に雇人候事   故、何ぞの節は、一人も当には相成不申、左様の節、急度此御城の一   方をも堅固に警固致す所の御工夫は如何候哉。貴兄は御城附の御勤な   れば、猶更御工夫可有之候。さあ御工夫は如何\/と尋る故、差当何   の工夫も無之、今日弓を削、銭砲を打、其外鎗剣等武技の稽古を心掛                            ものゝふ   候は、皆其節の用と存候と答へければ、夫は申迄もなき武夫の常にて、   我々共より遥に小給なる十石三人扶持の同心中にも、相応に出精いた   し候。是等は唯一己の嗜にて、僅に武夫一人前の事。夫を以一方を堅   固に警固するとは申されず候。頭の家来も何も頼に致さず、一己の力   を以、一方を守禦致す所の工夫に候と申故、貞の答に、愚昧にて中\/   左様なる大度の処は、工夫も覚悟も無之候。定而貴兄は御工夫之ある   事と被存候。何卒其工夫承り度と申ば、側なる本箱より、何か半紙二   三枚に書たる帳を出して、是を御覧被成と申故、手に取て見れば、当   地□□村渡辺村□□共の掟書なり。第一ケ候は、御公義様御法度之事、   決而相背間敷抔ありて、数ケ條の末の一ケ條に、我々ども運拙くして   同じ人間に生ながら、畜生同様、人間交りも出来ぬ身なれ共、伝へ承   るに、漢土にて樊といふ人は、屠者にて、我々の仲間なれども時を   得て、王侯貴人に至られし事あれば、我々とても、公議御法度を能く   守り、今日悪事を致さず、律義に職業を精出さば、後に時を得て、人   間交りの出来る事もあるべき間、此掟の條々を、一統能く可相守とい       くゝ   ふ掟書の括りのケ條也。其時平八郎申は、此処にて候。□□ども人間   交りの出来ぬといふ所が、彼等之第一残念に有る処にて、親鸞といふ   智慧坊主、其処をよく呑込で、此方の宗門にては、□□にても、少も   障りなし、信仰のものは今世こそ□□なれ、後の世には極楽浄土の仏   にしてやらふと云ふを、殊の外難有思ひ、本願寺へ金子を上るを、□   □程多き者はなし、死て後の有とも無とも、碇と知ぬことさへ、人間                かたじけなく   並の仏にすると云ふを、かく辱存るからは、只今直に人間に致し遣す   と申さば、此上なく難有がり、火にも水にも命を捨てゝ働くべし。左   すれば何事ぞある時は、五百や千の必死の人数は、忽得らるゝ事にて、   夫を以、よく指揮を致して、急度二万を守衛すべき心得なり。   当時出水にて、此堤が危く、是を切ては数万人の一命にもかゝる故、                  いつ   是非防がねばならぬといふ時は、毎も□□を遣ひて防ぐ也。又市中の   火災にても、爰は是非防がねばならぬといふ時は、又□□を遣ひて防   ぐ也。其時は□□共必死になりて防ぐ故、是非死人怪我人三人五人無   き事はなし。ケ様之時に、命を捨て働くものは、今時□□に及ぶもの   なし。是を以て能く指揮して、唯今本道の人間にしてやると申さば、   又十倍の力を出して働くべし。さらば何ぞの時は、急度御用に立べし。   去るに依て、平常共心得を以て、随分不便を加へ、又悪事を為せば、   厳重に取計、既に□□共十五七人博奕を致す所へ、僕踏込て、一人も   不残召捕たる事あり。其節は捕縄も不足にて、□□どもの帯をときて、   くくりし事あり。随分威も恵も失ひ不申様に致候に付、□□ども僕の   事は、至極畏れて、難有がり居候と申候。   貞其時は甚感心致し、中々大器量ある人にて、貞等が思慮の及ぶ所に   無之と、唯閉口して聴居たり。扨是は文政四年にて、平八郎年廿八歳   の時也。〔咬菜秘記〕    (以上所謂る差別的文句の続出するは、記者が自から筆したでなく、    原文をその儀掲げたるもの。若し悉く之を改刪せん乎、その意義を    なさず、是れ史家として已むを得ざる業なり。既に此文は大正九年    十二月大阪にて発行したる、中斎大塩先生年譜にも掲げてある。) 云ふ迄もなく他日坂本は、大塩の爆発に際して、討手の一人として最も功                  へんぱ を立てたるもの。其言の大塩に対して偏頗ならざるは、以て知る可し。然 るに彼の語る所此の如し。如何に只だ一介の与力として、大塩の著眼点の 非凡であつたかは、如上の物語りにて其の一斑を察す可きであらう。

   
 

坂本鉉之助「咬菜秘記」その3


「近世日本国民史」目次/その29/その31

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