Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その32

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    三二 所謂る切支丹党与の罪案

妖教退治 一件 所謂る妖 教の起り 妖教党与 張本人水 野軍記 豊田貢 軍記の秘 法 伝法の次 第 修行者宣 誓 果して切 支丹か 評定所の 疑惑 党与連類 処分 酷吏治獄 の類か

抑も前記の大塩平八郎三大功績を、具体的に語れば、第一は、豊田貢等の 妖教退治一件だ。此れを切支丹邪宗門一件糾弾と云ふは、果して事実の真 相を得たるや否や、聊か疑無きにあらず。兎に角文政十年四月、大塩平八 郎三十五歳の時、長官高井山城守の命を承け、妖教の党与を京摂の間に捕                             むねおき 索し、八月に至りて、其の審理成り、之を大阪城代松平伯耆守宗発を経て、                         すけとも 幕府評定所に差出し、十二年十二月、城代太田備後守資始の手を経て申渡 され、足掛け三年を経て落著した。 文化年間、肥前唐津の浪人水野軍記妖教を唱へ、豊田貢なる女(五十四歳) の秘法を伝へ、京都八阪に、表面豊国神と称する祈祷所を設け、内実妖術 を行うた。其の配下にきぬ(五十九歳)さの(五十六歳)の二女あり、盛 に愚夫愚婦を誑惑して、金品を掠めた。 而して其の党与には軍記門人、伊良子屋桂歳、岩井温石、高見屋平蔵、藤 田顕蔵等あり、京摂播但の間に、妖教復興を計画したと云ふことが、其の 罪案の大旨だ。 張本の人物水野軍記は、島原切支丹の伝統の者らしく、常に天帝の画像な るものを所持して四方に漫遊し、寛政中京都に入りて、二條家及び閑院宮 家に仕へ、非行ありて、文化十四年出奔したるも、途に捕はれ、家財没収 の上放逐せられた。文政三年西国より長崎に遊び、五年再び京摂に帰り、 遺言して、恥洒しなればとて、其の墓碑を建つるなからしめ、文政七年十 二月二十二日没した。 豊田貢は京二條新地明石屋の遊女で、後ち土御門家配下の陰陽師斎藤伊織 の妻となり、三十五六の時、伊織が宮川町遊女某を誘うて出奔するに及ん で、偶ま水野軍記に会し、其の門人となりて、秘法を伝へたと云ふ。 軍記の秘法は、果して切支丹に由来したる乎、否乎、的確ではない。但だ 彼が蔵品中には、天帝如来の画像や、若干の禁制書類があつた。伝法の次 第は、第一、浴水及び不動心の修行だ。そは夜中深山幽谷を跋渉し、滝又 は井水に浴し、身を清め、心胆を養ふことだ。貢は修行三十日強、きぬは 二年余、さのは七年余にて、漸く伝法となつた。きぬは摂津伊丹の出生に て、幼にして父母に離れ、十六歳の時京都に出で、下女奉公をなし、七條 塗師屋町京屋喜兵衛の女房となつたが、文化元年に寡婦となつた。さのは 当歳にて父を失ひ、七歳にて母を失ひ、十六歳にて祖父母を失ひ、三十四 歳にて夫を失うた。彼はきぬと姉妹の約を結び、且つ同人より此の法を受 けた。何れも寄辺なき者共であつた。 伝法の時には、此法は天下厳禁の切支丹宗門天帝如来を念ずるものなれば、 万一事現はれて厳科に就くとも、師名及び伝来の次第を、白状す可きでな い。其身一人仕置になるは、栄花の上の栄花と思ふ可しとの申渡がある。 而してその宣誓が済めば、センスマルハライソの陀羅尼を教へ、二六時中 一心に之を無声に唱へしめた。                              そゝ 又た其の宣誓の際には、天帝如来の画像の胸と覚しき所に、血を濺いで、 其教を奉ずるを誓ふのだ。貢は右の中指を突いて、其血を濺ぎ、きぬは、 貢差図の通り、指血を濺ぎ懸けた。 併し此れが果して切支丹であつた乎、否乎は疑問だ。大塩は全く斯く審 理して、其の案を作りて、具申したが、幕府詮議の長引きたるは、畢竟 それに異論があつた為めであつたらしい。 文政十一年十月、此の一件は幕府評定所の手に移り、翌年五月、右一座 から、一件吟味仕直に付、老中へ内意を伺うた書中には、『異術を以て、 奇怪の義を仕成、人の耳目を驚候は、必切支丹に限候儀にも有之間敷』 と云ひ、又さのは、長崎にて踏絵を踏み、絵姿を見てより、信心愈増し たりと云ふは、踏絵の無効を示すも同然、『旁以容易に切支丹宗門修候 ものとは治定致兼候儀に可有御座処、掛り見込は全右宗門致修治候もの と相極、吟味詰候儀に御座候』と云ひ、幕府の内意を伺うたが、幕府で は掛り見込の如く、切支丹宗門と差極めて判決せよと命じ、此に於て評 定所は同年七月、評議書を差出し、十二月五日高井山城守より、愈よ仕 置を申渡すこととなつた。貢、きぬ、さの、桂蔵、平蔵、顕蔵は、大阪 三郷町中引廻の上、磔に処せられた。さの、きぬ、桂蔵、顕蔵四名は、 病死に付、塩詰の死骸を、その通りに処分した。而して其の党与及び連 類、皆なそれ\゛/処分せられた。〔幸田成友著大塩平八郎〕 惟ふに此の一件は、果して大塩の功と云ふ可き乎、否乎。彼は当初より 之を以て、切支丹の余党となし、先入の見を以て、強ひて之に牽き付け た。即ち羅織、鍛錬以て此の罪案を作り上げた。手柄と云へば手柄だが、 酷吏の治獄に類すと云ふも、恐らくは弁解の辞があるまい。

   
 


幸田成友『大塩平八郎』 その30
浮世の有様「文政十二年切支丹始末」その1


「近世日本国民史」目次/その31/その33

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