Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その38

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    三八 隠居後の大塩

道学先生 たる能は ず 一大自我 の塊 吏僚間に 重きを為 す 矢部と大 塩 大塩の肝 癪 天保四年 の穀価騰 貴 大阪の穀 価調節 大塩の新 年口号

大塩は著述をした、門人をも教導した、交友も追々と広くなつた。時には 尾張の宗家を見舞ひ、其他の旅行をもした。彼は此の如くして一生を送る に、何等の不足は無かつた。然も彼は一個の道学先生と成り済す能はなか つた。  彼は太虚などと口僻の様に語つたが、然も彼自身は、一大自我の塊であつ た。孔子は意無なく、必無く、固無く、我無しと云うたが、彼は之に反し て、意必固我の結晶であつた。加ふるに彼は気が勝ちつゝも、其の肉体は   るゐじやく 寧ろ羸弱であつた。文政九年彼歳三十四の時には、先年来の肺病にて、劇 職を厭ひ、辞意を長官高井山城守に申し出たことさへあつた。而して此病 は恐らくは彼の気を以て打ち克ちたるも、其の根治に至らなかつたことは、 推察するに余りある。肺病が其人の心理情態に、多大の影響ある可きは、 是亦た推察するに難くない。 彼は時事と全く没交渉たる能はなかつた。而して彼は尋常一様なる、与力 の一隠居たる拘らず、隠然重きを、大阪吏僚の間になし、奉行等の名誉顧 問とも云ふ可き位地を占めてゐた。 当時幕府の能吏矢部駿河守定謙、天保四年七月堺奉行より大阪西町奉行に 転じた。而して炯眼なる矢部は、能く大塩の人と為りを見抜き、善く彼を 待つた。   平八郎は所謂肝癪の甚しき者なり。与力を務る内、豪商を抑し、小民   を救ひ、奸僧を沙汰し、邪教を吟味したる類、天晴の吏といふべし。   又学問も有用の学にて、なか\/黄吻書生の及ぶべきにあらず。某奉   行在役中、度々燕室へ招き、密事をも相談し、又過失をも聞き、益を   得ること浅少ならず。言語容貌決して尋常の人にあらず。……彼賓に   叛逆を謀らんには、某嘗て平八郎を招き、共に食を喫せしに、折節   かながしら   金頭といへる大魚を炙り出せり。時に平八郎憂国の談に及び、忠憤の   あまり、怒髪衝冠ともいふべきありさま故、余種々慰諭しけれども、   平八郎ます\/憤り、金頭の首より尾までわり\/噛砕きて食ひたり。   翌日に至り、家宰某を諌めて曰、昨夕の客は狂会り、ゆめ\/高貴の   御方に近づくべきにあらず。爾来奥通りをさし止給へとて、実に某が   為を思ひて言ひけれども、汝が知らん所にあらずとて、始終交を全う   せり。此一事小なりといへども、平八郎の為人を知るに足れり。   〔藤田東湖見聞偶筆〕 以上は大塩事件後、矢部が藤田に向つて語りたる所、此れにて大塩の人と 為りを知る可く、併せて矢部と大塩との相得たる関係をも知り得可きだ。 大塩は全く時事に没交渉たる能はなかつた。天保四年八月朔日、暴風雨、 関東殊に甚だしく、穀価騰貴、播州にては、百姓一揆が起つた。而して十 月三日附にて、大塩が、伊勢津の平松楽斎に与へたる書簡の一節に曰く、   拙堂(斎藤)兄目撃之事に付、御咄も可有之、播州辺、石価踊貴、騒   動いたし、先鎮り申候へ共、偖々いやなる事に御座候。傷人も往々可   出来、仁人之可悲事に候。 と。当時矢部は、其子鶴松を、洗心洞に入学せしめ、大塩に教育を託し、 彼を延いて其の顧問とし、大いに其の献策を用ひた。されば関東にては米 一升二百五十文に上つたが、大阪では百五十文から二百文を限りとした。 此れは矢部が幕府に建言し、江戸廻米を緩くし、西国大名に大阪廻米を増 加せしめ、堂島米穀市場の投機を取締り、穀価を平準するの策を施し、市 中窮民には難波、川崎の両官倉を開らき、島町及び奨棊島の籾蔵を発し、 之を低価に分配し、又た市中の豪商に諭して、二回まで金穀の醵出、救済 を為さしめたる等、機宜に適中したが為めだ。〔大塩先生年譜〕然も大塩 は天保五年四十二歳の新年を迎ふるや。    甲午元且口号 二首   新衣著得祝新年。羹餅味濃易下咽。忽思城中多菜色。一身温飽愧于天。   一身温飽愧于天。隠者寧無心救全。闘在隣郷往翻笑。黙繙大学卒章編。 彼は決して隠者として、書斎に安居するを以て、自から満足しなかつた。彼 の心は四囲の情態に向つて、頗る緊張し来つた。

   
 


石崎東国『大塩平八郎伝』 その63


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