Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その39

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    三九 大塩と江戸出府

空虚聚語 の出版 大塩慷慨 伊勢講経 岡本花亭 の出府勧 説 出府の意 なし 吏僚にコ リコリ 大塩不平 の根元 天保五年 の大阪大 火 岡山近江 等に赴く 老中大久 保大塩召 命に意あ り 大塩参府 の意勃々 空恃みと なる

大塩は到底一個の道学先生と成り済し得なかつた。天保五年正月には、儒門 空虚聚語二冊を刻した。彼は其の稿本を、伊勢神廟文庫に奉納した。当時彼 が如何に慷慨の情、熱切であつたかは、左の詩を見ても、之を察するに余り ある。    天保甲午早春、歩野外、適見餓、不顧其赤子焉。憫然賦之、且述所   聞与所恐、以似同志、不敢欲触他人之眼耳。   世将五事至無儀。 五行乖民泣飢。東海雪中食死馬。寒村眼下棄生児。   逢春新麦還枯寂。送暁朝暾何老衰。薪木底含星点火。阿誰撲滅悩心思。 同年二月には、伊勢山田神廟書院講経の約に赴き、足代氏に寓し、二十六日 に、古本大学致知格物の本義を講じた。帰途は津藩を過ぎ、三月十四日大阪 に還つた。而して三月二十日、又た門人数輩を率ゐ、兵庫に出て楠公の基を 弔し、一ノ谷、鵯越等、源平の古戦場を見、二十八日、大阪に還つた。 帰来其の机上に、津藩平松楽斎からの来翰があつた。そは江戸の循吏にして 詩人たる岡本花亭が、大塩に傾倒し、藤堂数馬(家老の一人)に托して、彼 の出府を促がすものであつた。然も大塩は、之に対して、左の返事を平松に 与へた。   数馬様(藤堂)御在府中、岡本花亭翁噂には、翁不侫へ逢度との義に付、   被仰下承知仕候。賢者の事に付、嘸探き思惟の有之義とも被存候。不侫   も宿望に候へ共、各天隔土之離無奈何事に御座候。……不侫者箚記に   も有之候通、最早再用抔願候念毛頭無之、然者尋も無之、建言すべき様   も無之、只太虚講学之一路而已に御座候。東武之士、不侫参り候様申越   候人々も御座候へ共、爰十年計者、沈潜不参積に御座候。所詮要路之大   官に無之候へ者、十分之存寄通り出来不申ものに候。已前吏務中に   コリ\/致居候。此上は草莽中に蟄し、空言を吐き、其中にも孝悌之道   丈は興し度決心に御座候。翁は万一逢候共、唯此話而已と存候。四月七   日。 彼は決して草莽に空言を吐くを以て、自から安ずる者では無い。併し彼も下 僚に在りて、其志を行ふの難きは、自から実験したる所。『所詮要路之大官 に無之候へ者、十分之存寄通り出来不申ものに候』の一句が、彼の断案だ。 然も彼は如何にして、要路の大官たるを得可き。彼の胸中に欝積したる不平 の気分は、固より此に存する。 同年七月十日には、大阪大火あり、堂島裏町二丁目桜橋筋より発火し、曾根 崎、天満、川崎、北野、梅田一円を焼き払うた。但だ大塩の邸は僅かに免れ た。彼が足代弘訓の慰問に答ふる書中にも、   妖蘖紛々然と起り申候。此上は仁人君子命を極る所処と被存候。 と云うてゐる。 彼は同年九月備前岡山に赴き、熊沢了介の遺跡を尋ね、関谷黌を尋ねた。而                      いた して十月は、近江の藤樹書院を訪ひ、永源寺に抵り、越渓の楓を賞した。而 して其の十一月には、洗心洞学名学則並答人論学書一冊を、家塾に刻した。 此年秋より気候順調に復し、五穀豊熟にて、一同愁眉を開いた。明くれば天 保六年、彼歳四十三。皆時老中の首席小田原城主大久保加賀守忠真、大塩を 召して政治を問はんとするの意あり。此れより先き儒者古賀小太郎(庵) をして、彼の対策を徴せしめた。大塩は『真知聖道実践』の一篇を草して、 之を古賀小太郎に致した。此れが天保五年十二月十二日のことだ。而して六 年正月、江戸武藤休右衛門賀年の別紙に、大塩召命の風説を伝へ来つた。大 塩は、正月十五日附にて、左の返書を送つた。其中の一節に曰く、   江戸表より鄙人を被召候外説御座候付、心得に被仰下候次第、千万辱奉   存候。素より此方仕掛候儀には更無之、御方よりの仕掛に付、千万人相   手有之候とて不苦、家名を滅亡いたし候積りにて、出府いたし可申候。   勿論、公義よりの御召に候はゞ、主命に付、門人一人も召連不申、草履   取も引具し不申候。只鄙人独歩にて直様参府可致積に候。且臘小太郎   (古賀庵)へ向、俗書を以及掛合候事之御座候。其返書も可有之と相   楽しみ罷在候。助け候儀に候はゞ、独歩にても上之御為に相成候。幾人   召連候とも、難免節者、助り不申候間、先祖之英名を、今又天下に施し   候儀、到来と竊に喜候。此上御召之実否を、御聞取候はゞ、早々御聞せ   可被下候。正月十五日。 彼は実に此の如く伯楽の一顧を待つてゐた。併しそれは空ら恃みであつた。 幕府は決して眇たる一与力の隠居たる彼を、相手としなかつた。

   
 


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