忠成の政
治
土方縫殿
助の威福
忠成上洛
の際土方
等の行装
忠成施設
忠成取扱
の諸家資
格昇進
賄賂公行
落書
右の註釈
施政頽廃
の罪魁
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たゞあきら
水野忠成は、必らずしも多大の野心があつたではなかつた。唯だ
将軍に迎合して、其の信寵を固くし。其の門市の如く、大びらに
賄賂を貪ぼり、請託もて、其の政務を料理した。而して彼の老臣
土方縫殿助亦た頗る威福を弄し、筍も水野に取り入らんとする者
は、先づ土方に取り入るを捷径とした。蓋し土方の水野に於ける、
猶ほ井上伊織の田沼意次に於けるが如くして、更らに之に輸を掛
けた程であつた。されば当時の人の説に、公方は忠成に背き給ふ
能はず、忠成は土方に背く能はずと。そは忠成が水野忠友の跡を
襲いだのは、土方が定策によつたからだ。〔徳川太平記〕
この侯の老臣土方氏は、其父より権門の余波を蒙りたる者に
やまかご びろうど
て、此行も旗装甚華奢なる由、従へたる山駕は、外を天鴛絨
にて包み、内に曲禄の体なる者を設け、精巧を極めしとぞ。
又乗馬も飾を専とし美観を尽し、押懸も厚房の如く見えしと。
うはまき
台弓も同じく盛蝕し、上繞は、緋縮緬にて、武用とは見えず、
祭礼の飾物など云ふべしと、人嘲りしと。又此人より自余の
人まで、何れも馬の尾袋は、縮緬を用ひ、紫色、松葉色、其
外種々ありしと。又従行の駕籠の日覆は、何れも羅紗脊板の
類と見ゆと、是亦見物せし者の語りき。〔甲子夜話〕
此れは水野が、文政八年九月、中山道を経て上洛したる際の事だ。
水野の執政たる、前後通じて十七年、其間に於て、彼の施設とし
て見る可きものは、家斉の子女をそれ\゛/外様・譜代の諸大名
に分配したるなどが、先づ著しきものであらう。其他増封とか、
家格の昇進とか、恩貸とか、何れも脾賄によりて行はれた事は、
当時に於ても公然の秘密であつた。
忠成相位に在ること凡そ十七年。その間に取計らひし諸家の
資格にあづかるものを拳ぐれば、越前家二万石の増封、当将
軍家の公子、越前家津山の養子(銀之助、斉民)五万石の加
封、因幡家(乙五郎、斉衆、因幡少将斉稷聟養子)及び館林
家(徳之佐、松平右近将監武厚聟養子)の養子、加州家在国
の儘隠居、家督。富山加州連枝の侍従、大聖寺同上の十万石、
肥前の長刀、熊本の先箱、藤堂家、丹羽家の虎皮鞍覆、会津
家の金紋先箱、酒井家姫路の溜詰、松前家の旧領移封、
その外長刀、二本槍を許されし家々若干あり。三家三脚以下、
いとま
恩貸を得しが如きに至ては、一々数ふるに遑あらず。其内に
は真の台旨、又は公儀に出しもあるべけれど、私謁、請託に
依りしも亦た少からざる可し。〔徳川太平記〕
尚ほ松浦静山は、左の如く記してゐる。
或人売薬の功能書を示す、最も奇薬にして、人或は其效験を
云者あり。唯寛政丹(按ずるに松平定信の改革施政)の法今
絶たるを歎ずるのみ。
立身 昇進丸、大包金百両 中包金五十両 小包金十両
一 かね\゛/心蔵を成就せんとおもふ事、此薬念を入用ゆ
べし。
おもだか
沢潟 尤肥後の国製法にてよろし。
(頭註 沢潟和名おもだか、其形家紋の如し。肥後の国製、
又は上総の貝淵)
奥女丹 此ねり薬、持薬に用ひ候へば、精力を失ふことな
く、いつか功能あらはるゝなり。
(頭註、奥女丹の上、一本大の字有)
隠居散 この煎薬酒にて用ゆ。
(頭註 この散薬は酒を忌む。されど別煎に用ゆるか)
右の通御用ひ候て、縁談、滞府、拝借の外、定り候例なき
事にても、即功神の如し。
林子(大学頭衡 述斎)これを読んで曰く、薬効書付も、
此まゝ御用ひたるべく奉存候。併今少しく頭書無之ては、
後世に至り、とんと分らぬ書付にて、人々解しかね可申候。
む
右林子の所云宜べなり。因て頭書は素より吾が為し所なれ
ば、一一其の首尾を露はす。
さ
ー きに寛政の際、白川侯越州(松平定信)吉田侯豆州
(松平信明)大垣侯采女正(戸田氏教)の輩、下ては参政
其外の諸有司丹誠して、遂に人善政と称す。然るに三十年
もと ひそか のみ
一世とかや。今は其法制故に違ふ所多し、竊に嗟嘆する耳。
一 沢潟は今の権閣水野羽州の家紋なり。肥後国は託語、
林肥後守を指す。亦今参政の権家、上総の貝淵は、その
居邑の地。
一 奥女丹とは、大奥の女中に手寄あれば、事の通ずる
こと早しと云ふことなり。
一 隠居散は、中野石翁をさす。されど此酒は嫌なり、
然るに酒と云ふことは、宴にても設けて招く抔のことか、
予もこの当りは不案内なり。〔甲子夜話〕
如何に寛政の政治が、文政に到りて頽廃したるかは、之を以
て知る可しだ。而して其の罪魁は、上に将軍家斉あり、下に
閣老水野忠成威ありと云ふを以て、公評とせねばなるまい。
因みに云ふ、中野石翁は、将軍寵姫の父にして、是亦た頗る
威幅を弄したる一人だ。
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