Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その5

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

 五 水野忠成(二)

忠成の政 治 土方縫殿 助の威福 忠成上洛 の際土方 等の行装 忠成施設 忠成取扱 の諸家資 格昇進 賄賂公行 落書 右の註釈 施政頽廃 の罪魁

  たゞあきら 水野忠成は、必らずしも多大の野心があつたではなかつた。唯だ 将軍に迎合して、其の信寵を固くし。其の門市の如く、大びらに 賄賂を貪ぼり、請託もて、其の政務を料理した。而して彼の老臣 土方縫殿助亦た頗る威福を弄し、筍も水野に取り入らんとする者 は、先づ土方に取り入るを捷径とした。蓋し土方の水野に於ける、 猶ほ井上伊織の田沼意次に於けるが如くして、更らに之に輸を掛 けた程であつた。されば当時の人の説に、公方は忠成に背き給ふ 能はず、忠成は土方に背く能はずと。そは忠成が水野忠友の跡を 襲いだのは、土方が定策によつたからだ。〔徳川太平記〕   この侯の老臣土方氏は、其父より権門の余波を蒙りたる者に                     やまかご    びろうど   て、此行も旗装甚華奢なる由、従へたる山駕は、外を天鴛絨   にて包み、内に曲禄の体なる者を設け、精巧を極めしとぞ。   又乗馬も飾を専とし美観を尽し、押懸も厚房の如く見えしと。             うはまき   台弓も同じく盛蝕し、上繞は、緋縮緬にて、武用とは見えず、   祭礼の飾物など云ふべしと、人嘲りしと。又此人より自余の   人まで、何れも馬の尾袋は、縮緬を用ひ、紫色、松葉色、其   外種々ありしと。又従行の駕籠の日覆は、何れも羅紗脊板の   類と見ゆと、是亦見物せし者の語りき。〔甲子夜話〕 此れは水野が、文政八年九月、中山道を経て上洛したる際の事だ。 水野の執政たる、前後通じて十七年、其間に於て、彼の施設とし て見る可きものは、家斉の子女をそれ\゛/外様・譜代の諸大名 に分配したるなどが、先づ著しきものであらう。其他増封とか、 家格の昇進とか、恩貸とか、何れも脾賄によりて行はれた事は、 当時に於ても公然の秘密であつた。   忠成相位に在ること凡そ十七年。その間に取計らひし諸家の   資格にあづかるものを拳ぐれば、越前家二万石の増封、当将   軍家の公子、越前家津山の養子(銀之助、斉民)五万石の加   封、因幡家(乙五郎、斉衆、因幡少将斉稷聟養子)及び館林   家(徳之佐、松平右近将監武厚聟養子)の養子、加州家在国   の儘隠居、家督。富山加州連枝の侍従、大聖寺同上の十万石、   肥前の長刀、熊本の先箱、藤堂家、丹羽家の虎皮鞍覆、会津   家の金紋先箱、酒井家姫路の溜詰、松前家の旧領移封、   その外長刀、二本槍を許されし家々若干あり。三家三脚以下、                      いとま   恩貸を得しが如きに至ては、一々数ふるに遑あらず。其内に   は真の台旨、又は公儀に出しもあるべけれど、私謁、請託に   依りしも亦た少からざる可し。〔徳川太平記〕 尚ほ松浦静山は、左の如く記してゐる。   或人売薬の功能書を示す、最も奇薬にして、人或は其效験を   云者あり。唯寛政丹(按ずるに松平定信の改革施政)の法今   絶たるを歎ずるのみ。   立身 昇進丸、大包金百両 中包金五十両 小包金十両   一 かね\゛/心蔵を成就せんとおもふ事、此薬念を入用ゆ    べし。    おもだか    沢潟 尤肥後の国製法にてよろし。   (頭註 沢潟和名おもだか、其形家紋の如し。肥後の国製、    又は上総の貝淵)    奥女丹 此ねり薬、持薬に用ひ候へば、精力を失ふことな    く、いつか功能あらはるゝなり。   (頭註、奥女丹の上、一本大の字有)    隠居散 この煎薬酒にて用ゆ。   (頭註 この散薬は酒を忌む。されど別煎に用ゆるか)   右の通御用ひ候て、縁談、滞府、拝借の外、定り候例なき   事にても、即功神の如し。   林子(大学頭衡 述斎)これを読んで曰く、薬効書付も、   此まゝ御用ひたるべく奉存候。併今少しく頭書無之ては、   後世に至り、とんと分らぬ書付にて、人々解しかね可申候。            右林子の所云宜べなり。因て頭書は素より吾が為し所なれ   ば、一一其の首尾を露はす。        ー きに寛政の際、白川侯越州(松平定信)吉田侯豆州   (松平信明)大垣侯采女正(戸田氏教)の輩、下ては参政   其外の諸有司丹誠して、遂に人善政と称す。然るに三十年              もと      ひそか    のみ   一世とかや。今は其法制故に違ふ所多し、竊に嗟嘆する耳。   一 沢潟は今の権閣水野羽州の家紋なり。肥後国は託語、   林肥後守を指す。亦今参政の権家、上総の貝淵は、その   居邑の地。   一 奥女丹とは、大奥の女中に手寄あれば、事の通ずる   こと早しと云ふことなり。   一 隠居散は、中野石翁をさす。されど此酒は嫌なり、   然るに酒と云ふことは、宴にても設けて招く抔のことか、   予もこの当りは不案内なり。〔甲子夜話〕 如何に寛政の政治が、文政に到りて頽廃したるかは、之を以 て知る可しだ。而して其の罪魁は、上に将軍家斉あり、下に 閣老水野忠成威ありと云ふを以て、公評とせねばなるまい。 因みに云ふ、中野石翁は、将軍寵姫の父にして、是亦た頗る 威幅を弄したる一人だ。

   
 


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