大塩は竹内式部や、山県大弐の如き意味の尊皇論者ではなかつた。又た高山
彦九郎抔と同一視す可き志士ではなかつた。彼は如何なる動機にて、大阪の
真中に、兵を挙げた乎、それには種々の経緯があらう。されど問題は、彼が
一時の突発であつた乎、将た以前より仕組みたる陰謀であつた乎。
には
此れに就ては、今ま猝かに断言し難い。されど彼が天保元年辞職して以来、
八年二月の爆発に至る迄、彼は何やら不可思議なる運命の手に駆られて、無
意識的に、遂ひに此処に落下し来りたる趣きがある。云はゞ水流が千山万塾
の間を迂曲して、端なくも断岸絶壁に出会し、最早後へは退けず、只だ銀河
九天より落つるの勢もて、下るの外はなき様のものだ。さりとて彼は爆発の
当時迄、全く無意識であつたと云ふではない。但だ辞職の当初から、大阪焼
打の巨魁とならんとは、我も人も共に思ひ掛けなき事であつたと云ふ意味合
だ。
話頭前に反る。彼は江戸よりの召命を、恐らくは期待したであらう。〔参照
三九〕併し時勢は、彼の所期と背馳した。江戸よりは何たる沙汰も無かつ
た。而して周辺の事情は、寧ろ彼に取りて、追々と不利益となつて来た。
彼は著述、旅行以外には、何等其の雄心を遣るの地はなかつた。天保六年二
月には、其著増補孝経彙註三冊刻成つた。四月には剛に家塾に刻したる洗心
洞箚記を、天文堂間五郎兵衛蔵版として刻することを許した。而して其の巻
首に天保六乙未夏四月の『自述』と箚記或問二條を添へ、巻末に門人の跋文
数篇とを加へ、且つ別に洗心洞附録抄一冊を附刻した。此の附録抄には、箚
記及び著者に関する諸家の書簡、及び詩文等あり。特に山陽の送序詩篇等も
ことさ きき
ある。而して諸家文中、往々故らに塗抹したる所がある。此れは忌諱を避け
たるものであらう。
而して同四月、又た儒門空虚聚語を世に公にし、合せて聚語附録を刻した。
而して五月には又た伊賀、伊勢の間に遊んだ。此秋八月には、所謂る仙石騒
動が起つた(参照 一三−一九)。而して是秋又々美濃に百姓一揆が起つた。
彼は之に憤慨して、左の詩を作つた。
突然来為暴。斬人如斬麻。公然忍為賊。何人不嘆嗟。憶昔六十余州土。
官吏如虎士似鼠。今夕是何夕。忽然鼠変虎。君不見三百年昌平恩。
秋花秋月恐游歓。
而して彼自身も、追々と虎と化せんとしつゝあつた。
天保七年彼歳四十四、三月東町奉行大久保讃岐守罷め、四月廿四日跡部山城
守良弼之に代つた。此の更迭は、彼の身辺に、多大なる刺戟と圧迫とを加へ
来つた。此の更迭は、尋常の役人の交代では無かつた。此れは大阪茶臼山一
心寺の獄に由来した。其の要領は、大久保讃岐守が、一心寺の請願を容れ、
さから
東照宮造営の事を建議し、幕旨に忤ひ、その為め大久保は職を罷められ、僧
侶は死刑に処せられ、而して東組与力の殆んど全部を、江戸に召問し、糾弾
数月にして、漸く落著した。其中には彼が親戚、門人等も少くなかつた。さ
れば彼も此の事件中は、故らに遠慮して、文武の講習を中止した。彼が同年
五月廿九日附にて、在江戸の門人高槻藩芥川思軒に報ずる書中に、
御地にて御聞込可被成哉、一心寺一件にて、同組之者、寺社奉行所へ被
召、罷出候故、小生一己之深慮を以、文武共稽古相休居申候。其故高槻
表得罷出不申候。
とあるを以て知る可しだ。而して彼は同年二月以来、気候不順の為め、又た
しも天保四五年度の飢饉の厄運を繰り返さんかと心配し、更らに天文を察し
て、斬伐の象ありとなし、真の桃源あらば、其処へ逃避せんも、当時は深山
幽谷とても俗吏の跡あり、寧ろ塵を塵中に避けんかと慨嘆した。〔五月十三
日附平松楽斎当書状の一節〕
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大阪商人の米価引上
天保六乙未年六月廿九日、辰の刻より大雨大雷、終夜大風にて海上大
荒破船其数知れず、川水一時に増す事四尺計り。
土用中天気申分なく照り続き、気候至つて宜しく、豊年の様子なりし
に、堂島の奸商頻に流言をなし、「北国洪水、土用中雨続にて、
やう\/三日ならでは天気なし。斯くては皆無ならむ」などいひ触ら
し、頻に米価を引上ぐる。同晦日より七月二日まで至つて冷かなり。
洪水出づ。
七月十四日、天満樽屋橋出火。同十四日江戸に於て姫路家中山本三右
衛門女親の敵を討つ。
十八日、福島真砂橋南失火、十九日迄は時候小しも申分なし。今日よ
り暴かに冷かなりしかば、奸商大に時を得て、頻に米価を引上ぐる。
閏七月五日夜より風吹出し、六日午の刻より風雨烈しく、夜に入り
弥々甚しく、所々の堀切込み人家大に損ず。天保山も一面の水となり、
南方の石垣大に崩る。此日海上一様に大荒にて、備前、備中、播州地
最も甚だし。破船人死大層の事なりしといへり。〔浮世の有様〕
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