Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その40

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第八章 大塩直接行動の因由
    四〇 身辺の事情彼を圧迫し来る

挙兵の真 因 無意識的 の勢か 周辺事情 の不利益 著述旅行 に雄心を 遣る 百姓一揆 に憤慨 大阪東町 奉行の交 代 一心寺一 件 塵を塵中 に避んと す

大塩は竹内式部や、山県大弐の如き意味の尊皇論者ではなかつた。又た高山 彦九郎抔と同一視す可き志士ではなかつた。彼は如何なる動機にて、大阪の 真中に、兵を挙げた乎、それには種々の経緯があらう。されど問題は、彼が 一時の突発であつた乎、将た以前より仕組みたる陰謀であつた乎。          には 此れに就ては、今ま猝かに断言し難い。されど彼が天保元年辞職して以来、 八年二月の爆発に至る迄、彼は何やら不可思議なる運命の手に駆られて、無 意識的に、遂ひに此処に落下し来りたる趣きがある。云はゞ水流が千山万塾 の間を迂曲して、端なくも断岸絶壁に出会し、最早後へは退けず、只だ銀河 九天より落つるの勢もて、下るの外はなき様のものだ。さりとて彼は爆発の 当時迄、全く無意識であつたと云ふではない。但だ辞職の当初から、大阪焼 打の巨魁とならんとは、我も人も共に思ひ掛けなき事であつたと云ふ意味合 だ。 話頭前に反る。彼は江戸よりの召命を、恐らくは期待したであらう。〔参照  三九〕併し時勢は、彼の所期と背馳した。江戸よりは何たる沙汰も無かつ た。而して周辺の事情は、寧ろ彼に取りて、追々と不利益となつて来た。 彼は著述、旅行以外には、何等其の雄心を遣るの地はなかつた。天保六年二 月には、其著増補孝経彙註三冊刻成つた。四月には剛に家塾に刻したる洗心 洞箚記を、天文堂間五郎兵衛蔵版として刻することを許した。而して其の巻 首に天保六乙未夏四月の『自述』と箚記或問二條を添へ、巻末に門人の跋文 数篇とを加へ、且つ別に洗心洞附録抄一冊を附刻した。此の附録抄には、箚 記及び著者に関する諸家の書簡、及び詩文等あり。特に山陽の送序詩篇等も              ことさ              きき ある。而して諸家文中、往々故らに塗抹したる所がある。此れは忌諱を避け たるものであらう。 而して同四月、又た儒門空虚聚語を世に公にし、合せて聚語附録を刻した。 而して五月には又た伊賀、伊勢の間に遊んだ。此秋八月には、所謂る仙石騒 動が起つた(参照 一三−一九)。而して是秋又々美濃に百姓一揆が起つた。 彼は之に憤慨して、左の詩を作つた。   突然来為暴。斬人如斬麻。公然忍為賊。何人不嘆嗟。憶昔六十余州土。   官吏如虎士似鼠。今夕是何夕。忽然鼠変虎。君不見三百年昌平恩。   秋花秋月恐游歓。 而して彼自身も、追々と虎と化せんとしつゝあつた。 天保七年彼歳四十四、三月東町奉行大久保讃岐守罷め、四月廿四日跡部山城 守良弼之に代つた。此の更迭は、彼の身辺に、多大なる刺戟と圧迫とを加へ 来つた。此の更迭は、尋常の役人の交代では無かつた。此れは大阪茶臼山一 心寺の獄に由来した。其の要領は、大久保讃岐守が、一心寺の請願を容れ、                さから 東照宮造営の事を建議し、幕旨に忤ひ、その為め大久保は職を罷められ、僧 侶は死刑に処せられ、而して東組与力の殆んど全部を、江戸に召問し、糾弾 数月にして、漸く落著した。其中には彼が親戚、門人等も少くなかつた。さ れば彼も此の事件中は、故らに遠慮して、文武の講習を中止した。彼が同年 五月廿九日附にて、在江戸の門人高槻藩芥川思軒に報ずる書中に、   御地にて御聞込可被成哉、一心寺一件にて、同組之者、寺社奉行所へ被   召、罷出候故、小生一己之深慮を以、文武共稽古相休居申候。其故高槻   表得罷出不申候。 とあるを以て知る可しだ。而して彼は同年二月以来、気候不順の為め、又た しも天保四五年度の飢饉の厄運を繰り返さんかと心配し、更らに天文を察し て、斬伐の象ありとなし、真の桃源あらば、其処へ逃避せんも、当時は深山 幽谷とても俗吏の跡あり、寧ろ塵を塵中に避けんかと慨嘆した。〔五月十三 日附平松楽斎当書状の一節〕

      ――――――――――――――――――      大阪商人の米価引上 天保六乙未年六月廿九日、辰の刻より大雨大雷、終夜大風にて海上大 荒破船其数知れず、川水一時に増す事四尺計り。 土用中天気申分なく照り続き、気候至つて宜しく、豊年の様子なりし に、堂島の奸商頻に流言をなし、「北国洪水、土用中雨続にて、 やう\/三日ならでは天気なし。斯くては皆無ならむ」などいひ触ら し、頻に米価を引上ぐる。同晦日より七月二日まで至つて冷かなり。 洪水出づ。 七月十四日、天満樽屋橋出火。同十四日江戸に於て姫路家中山本三右 衛門女親の敵を討つ。 十八日、福島真砂橋南失火、十九日迄は時候小しも申分なし。今日よ り暴かに冷かなりしかば、奸商大に時を得て、頻に米価を引上ぐる。 閏七月五日夜より風吹出し、六日午の刻より風雨烈しく、夜に入り 弥々甚しく、所々の堀切込み人家大に損ず。天保山も一面の水となり、 南方の石垣大に崩る。此日海上一様に大荒にて、備前、備中、播州地 最も甚だし。破船人死大層の事なりしといへり。〔浮世の有様〕   ――――――――――――――――――

   
 


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