Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.16

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その41

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四一 門人の自殺と大学刮目の出版

門人の自 殺 右に付大 塩弁解 元気の一 人 温厚の一 人 巾著切処 分の事 自殺の事 後にて承 知 大塩上の 気受宜し からず 大学刮目 出版 佐藤一斎 序文謝絶 古賀奄 また峻拒 斎藤拙堂 また屡刪 定 大塩一生 の受用

物は類を以て集まる。不幸の場合には、不幸が不幸を伴ひ至る。東組の与力 が、江戸に召喚吟味を受けたると前後して、大塩の門人、同心二人何れも職 務に兢ひ勤むるの際、越権の咎を上司より受け、正さに拷問に附せられんと       し、それを慚ぢて自殺した。而して此れが大塩に少からざる累を為した。彼 が天保七年五月廿九日附にて、平松楽斎に答へたる書中の一節に曰く、   門人自尽并賊面灸治の義等、江戸表より御伝聞有之、右自尽に付候ては、   小生申勧候由に御聞取、無理も有之趣、乍去門人は殖候取沙汰有之、虚   実御分兼‥‥詳に可申上旨承知仕候。‥‥右門人自尽と、賊面灸治は、   両件に無之、則ち一事にて、右門人は、御同心共の内にて、一人は年二   十一、気象強く、一人者温厚の人に御座候。気象強き者は槍術もいたし   候て、元来賤しき勤向は無覚束、何れ禍を可蒙哉に被存候。‥‥昨年五   月頃、勤向を辞、退役をいたし、跡を実弟も有之、夫へ譲、心長く学問   いたし、右業成、然る上は他へ被抱仕候こと可然様、其朋輩を以、再三   当人初父母並に叔父へも申聞候処、‥‥当人其後小生の案も不用、元気   に役を勤、最早危く相見候付、破門致候段、朋友を以達し置候。   残一人温厚に候得共、勤向に掛り候と、自然に甲乙を争候。利路之事に   付、道理は疎に相成候筋を、講釈等も承りに参り不申候。   然る処昨年已来、賊不少よし、右之者共外に一人申合、キン著切と申小   盗を懲め、其面へ灸をいたし、又は髪を剃り、追放候義も有之、右体之   義、自儘にいたし候段、不相済候趣、頭支配より察度受、何角自分等に   も存心取計候由を申立候処。其勢著鞭吟味可及旨申渡候処、私慾非分い   たし候には無之、畢竟賊害を可除ため、浅慮の余取計候義を、吟味受候   とは、一旦学問もいたし候身、可死不可辱義をも耳に挟居候哉、吟味可   致旨、尚又強く沙汰有之や否、自分と自尽いたし候義にて‥‥跡にて及   承候。右父母、叔父共に至る迄、小生の先見を感じ、早く退身為致候   はゞ、箇様之事は無之と申居、後悔いたし居よし。定而江戸へは、色々   讒言いたし候者も有之やに承り伝居候。   小生素より退身いたし候已前、勤向等之義者勿論、隠居仕候事ども、万   端上之気受不宜よし、古来賢哲何れも学問を以て陰禍を受候例甚だ多し。   小生如き不肖もの、箇様に退身七年之間、無事に窓底におゐて経籍を読、   安楽に消光致候は、誠に余分之義に難有、此上如何様に相成候共不苦、   只方寸一点之霊光を恃にいたし、命を俟つ而已に御座候。 此れにて如何に彼が、江戸に気受悪しく、且つ注意人物視せられてゐたかゞ 判知る。 大塩は天保七年六月、古本大学刮目七巻を家塾に刻した。此れは彼が畢生の 著述と云ふ可きものにして、文政六年起稿、天保三年脱稿、実に十年の歳月 を費してゐる。天保三年四月、一たび頼山陽に示し、山陽も其の成るを待つ て、之が序文を作らんと約したが、山陽は同年九月に逝き、逐ひに果さなか つた。大塩は天保四年の始佐藤一斎に、序文を請うたが、一斎は天保五年正 月九日附にて、左の返書もて体善く謝絶してゐる。   拙老事御承知之通、林家を羽翼いたし候場所に居候へば、所謂避嫌許多   有之候。自分之事は、兎も角もに候得共、林家之学と異同を立候様に相   成、林氏之為に不宜候間、上木ものなどに姚江めきたる事は致遠慮候。 而して古賀奄の如きは、   予後素の己が著す所の大学刮目に序を請ふに於て、之を峻拒し、且つ頗                    ていはい   る其の眩才虚驕の習を悪み、間ま之を觝排す。〔学迷雑録稿〕 と云うてゐる。尚ほ斎藤拙堂も天保四年十月洗心洞を訪ひ、其序を作らんこ とを約し、大塩は、五年四月廿六日附にて、                          けいし   刮目之御序に、遂々御刪定浄書も可被成思召に付、畦紙可差上旨、是又   承知仕候。御多忙中夫是御労勉気之毒に奉存候。任命三枚さし上候、御   入手宜奉奉希候。 と云うてゐる。併し刻本の中にはこれも掲げてない。此書は既記の如く、天 保壬辰(三年)の夏脱稿し、爾来筐底に蔵し、天保丙申(七年)五月に至り て校訂全く成り、乃ち彼が自から云ふ如く、『十四年以来精力を尽し居有之』 ものだ。其書は諸家の大学に関する意見を集めたるものなれども、毎節必ら ず『後素按』の三字もて、最後の断案を下してゐる。彼の一生の受用、殆ん        ど此の一言にきたりと云ふも、過当の言ではあるまい。

   
 


石崎東国『大塩平八郎伝』 その84


「近世日本国民史」目次/その40/その42

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ