Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その42

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四二 大塩と跡部良弼

大塩の本 意 何物にか 激成さる 時事慷慨 と増長我 慢病 激成の一 因 跡部町奉 行就任 矢部大塩 の人物を 跡部に語 る 矢部助言 は蓋し事 実 跡部大塩 衝突の勢

抑も大塩は、本来徳川幕府に対して、不平もなく、又た当時の現状を破壊せ           あた んとする意見もなく、能ふ可くんば、幕府に召出されて、其の志を行ひ、名 を当世に揚げんと欲し、左なくば退いて聖賢の学を修め、道を後世に伝へん と心掛けたる外に、余念無かつた。 然るに彼が清平の天地に蜂火を揚げ、時ならぬ騒動を起したのは、何故であ る乎。とても彼には倒幕の根本的思想なるものは無つた。又たそれ程の野心          おも も、大望も無つた。惟ふに彼は、全く何物にか激成せられて、此挙に出でた のであつたらう。 彼は三十八歳の働らき盛りにて隠居したれば、其の落々たる雄心は、固より その儘消磨す可きではなかつた。彼は過当の野心を懐かなかつた代りに、非 常なる自尊心を持つてゐた。彼は恐らく一方に於ては、時事を慷慨し、胸中 悶々たる気欝病に罹り、他方に於ては、に罷つたのであらう。而して此の両 病は、内外より彼の一身を攻めて、逐ひに彼が如き挙を目論見るに至らしめ たのではあるまい乎。 然も彼を激成して、此処に至らしめたる、総ての原因たらざる迄も、その一 因は、大阪東町奉行跡部山城守良弼であったと云はねばなるまい。彼は当時 の老中水野越前守忠邦の弟で、其の背景によりて、自から恃む所あるのみで なく、本来其兄忠邦に似て、剛愎の性質にて、然も兄程の機略を欠いた。彼 は赴任の当初から、大塩などを相談相手として、其の政事を行はんとする心 は無かつた。否な寧ろ与力の一隠居が、余りに声望の隆々として、歴代の奉 行が、彼を憚るの風あることを不快に感じてゐたのであらう。 跡部は実に天保七年七月、大久保讃岐守に代りて、大阪東町奉行となつた。 而してその九月には、大阪西町奉行にして、大塩の知己と云ふ可き矢部駿河 守定謙は、勘定奉行に栄転し去つた。   丙申の秋、大坂町奉行、矢部駿河守、勘定奉行に転ず。跡部山城守矢部   の後任を命ぜられ、相代らんとするとき、跡部矢部に町奉行の故事、並   に心得となるべきことを問ふ。失部かたの如く申送りたる後、言やう、                                 かんば   与力の隠居に平八郎なるものあり。非常の人物なれども、たとへば悼馬   の如し、其気を激せぬやうにすれば、御用に足るべき也。若し奉行の威   にて、之を駕御せんとせば危き也と語るに、跡部唯々としてありしが、   退て人に語りけるは、駿河は人物と聞しに相違せり。大任の心得振りを   問ひしに、区々として、一人の与力の隠居を御するの、御し得ぬのと心                             おこ   配するは、何事ぞやと嘲りぬ。翌年に至りて、平八郎乱を作し、程なく   伏誅といへども、跡部奉職無状と、世人指を弾じ、駿州の先見を称誉せ   り。余(東湖)曾て此事を伝へ聞たる故、面のあたり矢部に質せしに、   矢部も謙遜してあらはには答へざれども、其の口気、世人の言るに相違   なし。〔藤田東湖著 見聞偶筆〕 跡部が矢部の後任となつたとあるは、事実相違だ。跡部は大久保の後任にて、 矢部の後任は、当分定らず、同年十一月八日に至りて、堀伊賀守利堅が、就 任することゝなつた。さればそれ迄は、跡部一人が町奉行であつたから、跡 部も矢部から其の引き次ぎに際して、上の如き助言を受けたことは、多分事 実であらう。 されど大久保の去つたのは尋常一様の交代ではなく、一心寺事件の為めの革 職であつた。〔参照 四〇〕。而して其の事件には、大塩の親戚、門人等も、 多少の干係あるものと認められてゐたから、大塩自身は無関係であつたとし ても、跡部が大塩に向つて、猜疑の眼を注いだのは、決して不思議ではない。 況んやそれ以外に、彼は大盤が与力の一隠居として、威福を逞うするの状あ るを、不快視したるに於てをやだ。されば跡部と大塩とは、早晩衝突す可き 虞れがあつた。然るに更らに其の機会を与へたのは、天保七年の饑饉であつ た。

   
 


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