Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.19

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その43

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四三 直接行動に出でしめたる事情及び機会

跡部大塩 を押へ付 んとす 直接行動 一動機 天保七年 の飢饉 跡部東組 与力疎外 平八郎心 得違存迫 り 半ばは跡 部の挑発

跡部は単に大塩を、尋常一様の与力隠居視するのみでなく、恐らくは積極的 に彼の頭を押へ付くる底意があつたかも知れない。   茶屋貞治書状云 只今迄は与力衆へ何角御任せの処、跡部様は御任せ無   く、尤大塩氏先年先規を替へ、与力不宜者を改め、何角定め置候処、其   定め御用ひ無く、其上何角西与力へ御談合も有之云々。〔大塩先生年譜〕 全く此の通りであつたらう。 然るに大塩をして愈よ直接行動に出でしむる一の動機は、天保七年の凶荒と、 之に処する跡部等の措置であつた。 天保七年は、二月以来霖雨止まず、五六月の候、冷気甚だしく、七八月に至 りて、暴風雨頻りに至り、五穀実らず、天明以来の飢饉を来たした。〔参照  二二〕而して此れが為めに此年八月、甲州に於て百姓一揆の出で来りた顛 末は、既記の通りだ。〔参照 二三〕彼は此年八月、門人数輩を率ゐて、甲 山に登つた。           りんがく   曾遊二十二年前。林壑再尋休旧新。今日思深似前海。 彷徨不独為詩篇。   人随無事酔明時。柔脆心腸如女児。却衝秋熱攀山険。 誰識独醒愼独知。 此詩を読めば、彼は依然たる道学先生の口吻であるが、然も其の胸中の機心 は、既に動き出しつゝあつたことは、言外に之を猜知するに難くない。 而して九月には、彼の知己―高井山城守程ではなかつたとしても―とも云ふ 可き、西町奉行矢部駿河守は去つた。此れよりして彼は東町奉行跡部山城守 と、正面衝突をなすの他はなかつた。当時跡部が其身東町奉行たるに拘らず、 頻りに西組の与力と事を謀り、東組与力を疎外にし、且つ之を処分せんとす るの、風説を生ずるに至りたる次第は、平山助次郎に対する幕府の裁決書に、   組(東組)風旧弊等、奉行(跡部)存寄を以て、改革可致は素よりの儀   にある所、組内勤向未熟、亦は我意申募、風儀に拘候者、組替申付可有   之風説承、身分に懸念は無之なれ共、自然右之通成行ならば、向組(西   組)へ対、不外聞の儀と歎敷存、且は向組の者共取計向も疑惑致候折柄、   兼て学問並勤向方をも教示受、随順罷在候間、組与力大塩格之助養父平                               あまつさへ   八郎、右風聞の趣等、彼是噂に及を承、弥心得違存迫り、‥‥剰違作打   続、諸民及難渋一体御政事向に付、平八郎存意に不応儀、間々有之、世   上を憂る心難堪旨、弔民大義を唱へ、王道に帰す様に致度。就ては謀計   を以て奉行を討取、大坂御城を始、諸役所並市中をも焼払、豪家の金銀   等、窮民へ分遣し、一旦摂州甲山へ可楯龍心底の旨、平八郎申聞、近国   へ告知らせん由、檄文読聞せ、右書中には無此上恐多文言も認有之候。 とあるは、固より事件後、幕吏の手に作りたるものとして、悉く信ず可きで はないが。然も大塩を始め、東組の与力、同心等をして、疑惧の念に陥らし めたる事情は、之を見ても分明だ。 乃ち大塩の直接行動は、其の半は跡部良弼が之を挑発したものと云ふも、過 言ではあるまい。然も衝突の機会を与へたのは、天保七年の飢饉であつた。 何を云ふも大塩事件には、此の飢饉が、尤も大なる要素と云はねばならない。   平八郎が吉見九郎右衛門に向ひ、先役の奉行へは、編輯の書物を差出し   た所、挨拶として衣類等を送られ、御用筋の儀も、同役を以て、お尋を   蒙り、当方も遠慮なく心底を打明け、甚だ愉快であつたと物語れるは、   今の不愉快に対する反証とも云ふ可く。又東町奉行の御覚目出度からざ   るは、西組与力、同心の所為に基くものであらうとの風説は、一般に東   組与力、同心の中に行はれ、平八郎に於ても、隠退の身とは申ながら、   残念に存ずると平山助次郎に語つたと、評定所吟味書にある。   〔大塩先生年譜〕 是等は固より大塩をして、直接行動に出でしめたる主因でないとするも、其 の傍因たるや、疑ふ迄もあるまい。然も其の機会を作り、且つ与へたのは、 飢饉である。

   
 


石崎東国『大塩平八郎伝』その95
大塩中斎「詩集


「近世日本国民史」目次/その42/その44

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ