Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その45

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四五 大塩挙兵の動機と目的

一片不平 の気の迸 出 只不平を 漏らすに あるのみ 経綸無し 忠告火鉢 投付に同 じ 大塩忠告 分析を要 す 大塩心底 対象は奉 行と富豪

大塩が直接行動を思ひ立ち、其の準備に取り掛つたのは、天保七年九月頃で あつた。〔参照 四〕彼は何故に斯る事を思ひ立つたの乎。そは彼に問はね ば知り難く、否な彼に問ふも、彼自身さへ、恐らく分明には、語ることは難 いであらう。何となれば種々の申分はあるにしても、要するに一片不平の気 が、彼を駆りて此に至らしめたものであるからだ。 彼は決して幕府の制度を打破せんとする者ではなかつた。彼は本来尊皇倒幕 論者ではなかつた。彼ほ只だ大阪の町奉行と、大阪の富豪とに向て、満腹の 憤慨を懐き、彼等に向てそれを漏さんと試みた。 然も其の憤慨を漏らしたる後は、如何にせんとする計画であつた乎、彼の窮 極の目的は、果して何物であつた乎。恐らくは彼は憤慨を漏らすことが、腹                                 いとま 一杯に満ち満ちて、それ以外若しくはそれ以上の事は、之を考慮するに逞な かつたのではあるまい乎。        おのこ 人或は大塩程の漢が、斯く生命掛けの仕事を、目論見むに付ては、屹度した る経綸がある可き筈だと云ふ。常情から見れば、是亦た尤の見解だ。されど 如何に詮議しても、無いものは無い。吾人はとても之を見出すことは能はな い。   矢部曰、平八郎叛逆人といへども、駿河守(矢部)が案には叛逆とは不   存候。平八郎は所謂肝癪の甚しき者なり。‥‥彼実に叛逆を謀らんには、   いかで大坂の御城へ龍らざることのあるべき。(原註 大坂御手薄の事、   門番の事等、年来大塩苦心の事なりとぞ。)然るに御城へは不入して、   棒火矢を以て、焼払ひたるは何ぞや。‥‥たとへば人過あるとき、再三   反覆して之を諌むるは忠といふべし。再三忠告せる上にも、其人不用と   て之を憤りて、坐にあり合へる火鉢などを、其人の面へ投るは、不敬の   至極なり。初には其人を愛するあまりに忠告し、後には其面体へ疵を付   けなば、安んぞ其人を愛するにあらん。平八郎も初は忠告すれども、用   ひられざるを憤り、叛逆に均しき渦乱を企しは、此頬なり。〔見聞偶筆〕                               みづ 以上は大塩事件後、矢部駿河守が藤田東湖に語つたところを、東湖親から筆               こうけい 記したるものだ。大体に於て、肯綮に中つたものと思ふ。併し大塩の所謂る 忠告なるものが、真醇なる憂国済民の至情より発したるものであつた乎。若           まじ しくは癇癪紛れ、不平雑りのものであつた乎。そは多少分析を要す可きもの があらう。大塩事件の裏切者吉見九郎右衛門の密訴中には、大塩が門人に向 つて、『漢高祖、明太祖等の功業抔を解得為致候』とありて、何やら大塩自 身が、高祖たり、太祖たらんとするが如き風情であるが。果して斯く語りた りとするも、そは匹夫にして、天下に大事を起したる者の、例証を挙げたる 迄であらう。   あまつさえ   剰違作打続、諸民及難渋、一体御政事向に付、平八郎有意に不応儀、間々   有之、世上を憂る心難堪旨、民弔大義を唱へ、王道に帰す様に致度。就   ては謀計を以て奉行を討取、大坂御城を始、諸役所並市中をも焼払、豪   家の金銀等、窮民へ分遣し、一旦摂州甲山へ可楯籠心底の旨、平八郎申   聞云々。 以上は裏切者の一人大阪東組同心平山助次郎に対する、判決文の一節だ。果 して大阪城を焼払ふ覚悟あつた乎。甲山に楯籠る計画あつた乎。そは断言の 限りでないが、然も其の大義を唱へ、王道に帰す云々は、大塩其人の口吻で あらう。兎にも角にも彼は奉行を討取、市中を焼払、富豪の金銀を窮民に分 配する丈の目論見は、正しく為したに相違あるまい。要するに前にも述べた る通り、彼の対象は、奉行と豪富とにありて、それ以上にも、それ以外にも 及ばなかつた様だ。彼が東照神君を標的に推し立てたる檄文を読めば、彼が                          決して幕府に対する謀反人でなかつたことは、解説を俣たずして分明だ。

   
 


「近世日本国民史」目次/その44/その46

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