Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その46

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四六 天保七年の末期

只窮民を 救ふとい ふにある のみ 米穀他所 積出の制 限令 余り苛酷 の制限 江戸廻米 一件 大塩義憤 また当然 大塩の大 阪米穀集 中策 是亦一策 京都へ米 輸送の件 京都の惨 状 官廩を発 するを請 う 跡部肯か ず 悉く大塩 所期に反 す

要するに大塩は、彼に云はしむれば、義憤禁じ難く、一身の利害得喪を度外                   まつしぐら 視し、生命を賭して、其の所信に向て、驀地暗に駆け出したるものと云ふ可 く。他に云はしむれば、大なる癇癪の余、前後の分別もなく、此の暴挙に出 でたるもの。何れにしても天下取りの野心でもなく、理想的の革命運動でも                            すく なく、唯だ天に代りて、汚吏と濁富豪とを処分して、窮民を済ふと云ふに外 ならなかつたものであらう。併し其の突発でなかつたことは―少くとも小半 年位は、その事に没頭したる形跡あるを見ても判知る。              いか 斯る場合に於て、一層大塩を嗔らしめたのは、天保七年十一月に定めたる、 大阪町奉行他所積出の制限令だ。即ち一日に付、京都五百二十石、伏見四十 石、堺五十石より六十石。其他近郷諸村、何れもそれ\゛/制限が定つた。 此れは必らずしも今回に始つたことではなかつた。従来とても凶年不作の場 合には、大阪在米の維持策として、斯る防穀令を布くの、余儀なき場合無き にしもあらずだ。されど今回の制限は、余りに苛酷にして、京都の如きは天 保四五年度の饑饉には、大阪より毎日二千石づゝ送米して、然も頗る窮迫し たと云へば、其の四分一に制限せられては、其の当惑知る可しだ。然るに更 らに大塩を嗔らしめたるは、江戸廻米の一件だ。 天保七年十一月廿九日、幕府は大阪奉行に、江戸廻米の命を伝へた。跡部山 城守は、在々有合米の儀は、江戸積出別段差支なき旨を諭告した。十二月五 日、江戸より仙波太郎兵衛、内藤佐助、永岡伊三郎等、米買上の為めに来阪 した。跡部は大阪の米商は、一切之に関与す可からざる旨を達した。然も彼 は裏に廻りては、内密に西組与力内山彦次郎に命じ、江戸買米に手伝はしめ た。内山は兵庫に出張し、兵庫の富商北風荘右衛門と相謀りて、買上米を取 り纏めた。 当時大阪にては、近郷より一斗や五升の米を購買に出掛くる窮民を捕縛し、 大阪在米の維持を努めつゝ。却て他方には江戸廻米の周旋をなすとは、誰が 眼中にも、余りに矛盾の仕方と映ぜざるを得ない。況んや満腔是れ不平の大 塩に於てをや。彼が之が為めに、愈よ義憤の情を切ならしめたのは、固より 想像するに難くない。   東御番所附之備与力隠居大塩平八郎殿は、諸人見開之通儒にて、政事方   抔に於て、実に天下之一人とも可申人傑にて、諸事は挙而申に不及。然   る処此度之飢饉に依て、大塩平八郎殿被申候には、大坂之義は、誠に日   本一之繁華之地にて、日本国中之金銀凡そ七分通りは、大坂に集り、残   り三分通り諸方へ散ず。通用致候は申不及事に候へば、右様結構之土地   に、大造之餓死有之候事、此儘に難捨棄候と、遠きを慮り、東御番所へ   願を差出被申上候には、当表此節は廻米少く、至て米穀払底に御座候。   実は何国も払底之様子に相見候間、只今之所にては、当地之米相場を格   別に引揚させ候はゞ、国々より相場に迷ひ、米に不限、雑穀とも相応に   廻著可有之。当所に取込候上は、如何様共手段仕、下直に売方為致可申。   勿論其義は幾ケ様にも計り候儀御座候間、何卒御許容被遊下度旨、再三   相願候得共、何分跡部山城守、御聞済無御座候由。〔平戸藩士聞書〕 大阪の米相場を、特別に引上げ、諸国より米及び雑穀を、大阪に廻送せしめ、 其上にて、相場を引き下げしむ可しとの策は、当時に於て、或は応急の手段 であつたかも知れない。   大塩平八郎重て申上候は、右之趣、御聞済無之候へば、京都之儀者、如   何被遊候哉、一天之君御座所に御座候へば、当地より米穀登せ不申事は、   決して相成不申候、此儀者等閑之儀にては無之、至而大切之事に候間、   能々御賢慮奉仰旨、段々相願被申候得共、一向に御取用無之、却而京都   へ米穀登せ候者有之候へば、可為曲事旨を触れ流し有之候より、此地得   意之米屋共より、密に白米を樽詰に致し、差送り申候処、右之者共を召   捕へ糺問に被及候由、甚以て不可の御取計ひ、此儀何共平八郎殿了簡な   らず被存候。〔同上〕 尚ほ大阪より米を仰ぐ京都の如きは、天保七八年の間に、流離餓死するもの、 合せて五万六千人に及んだと云へば、其の惨状以て知る可しである。 天保七年十二月、大阪に於ては小売白米一升二百文、白麦百五十二文、大豆 百二十四文、油一升五百八十文、酒一升二百八十文。市民は餓死、京都は制 限、江戸は廻米無制限。大塩此の情態を見て養子格之助を以て、跡部山城守 に速かに官廩を発して、民を済はんことを請はしめた。山城守諾して果さず、                              いとま 七八日を隔てゝ、其旨を聞かしめたるに、未だ城代に稟議するに逞あらずと 云うた。又た四五日にして報なし。三たび格之助をして追請せしむ。山城守 曰く、城代と議したるに、意外の差支あり。来春は将軍家(家斉)退老、西 丸様(家慶)襲職の大礼行はせらるゝに就き、非常の入用あり。窮民賑恤の     しば 如きは、姑らく措いて論ぜざれと。〔大塩先生年譜〕                      には 以上所記は、悉く事実であつた乎、否乎。今ま猝かに断言し難きも、少くと も大塩の献言は一として当局の有司之を採用せず、加之其の施設が、悉く大 塩の所期と相反したる事は、疑ふ可くもなき事と云はねばならぬ。

   
 


〔平戸藩士聞書〕


「近世日本国民史」目次/その45/その47

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