Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その44

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    四四 直接行動の準備

挙兵動機 に就ての 資料 砲術学習 諸門人競 うて学習 砲術学習 の名儀 大筒を作 る 火薬を造 る 百目筒を 得 砲術稽古 火薬、棒 火矢調製 大砲調達

                            抑も大塩が愈よ挙兵の決心をなしたるは、何時であつた乎。将た其の根本動 機は、何故であつた乎。而して其の最後の目的は、何辺に存したる乎。今日 に於て、之を明白に知る可き資料は、唯だ彼の檄文、彼の門人の裏切者の訴 状、乱後就縛したる同志者の口供、若しくは彼の行動に就て、之を徴す可き に過ぎない。 彼は天保七年九月玉造同心藤重孫三郎、同良左衛門父子を洗心洞に招き、養 子格之助、及び有志の門人をして、砲術を学ばしめた。藤重は中島流砲術を 以て鳴るもの、格之助は、以前より其の門人であつた。此れは明年春、堺七 堂ケ浜にて、丁打を行はんとの準備と声言した。丁打とは砲術の演習だ。此 れは果して丁打の為めであつた乎、挙兵の準備であつた乎。誰も明白 に答へ得るものはあるまい。 されど、前後の事情より推せば、彼が挙兵の決心せざる迄も、そろ\/其の 準備に取り掛つたものと見るも、差支あるまい。而して瀬田済之助、小泉淵 次郎、渡辺良左衛門、近藤梶五郎等の徒、相競うて之を学習した。此事に就 て、彼の門人東組同心庄司義左衛門の口供は、左の通りだ。   申(天保七年)九月より、格之助儀砲術稽古相初め居候に付ては、来春   に至り、泉州堺七堂浜に於て、丁打為致度積に付、棒火矢細工、其外火   薬之手伝いたし呉候様、平八郎も申聞、私以前同所にて、丁打いたし候   義も有之候間、頼之趣承知いたし、秋以来、御用透には、毎々罷越し、   右細工手伝いたし候。 此れは只だ丁打の話だ。されど庄司は後段に於て、更らに左の如く語りてゐ る。   猶又平八郎申聞候には、諸国異作にて、既に東国筋西国筋にも、百姓騒   立候風聞有之、上方筋にも、箇様の年柄故、油断成がたく。右体之節は、   其筋の御役所、又は領主、地頭より取鎮も可有之候得共、銘々にも其心   掛無之ては、臨時之御用に難相立、平八郎義は、当時隠居之身分とは乍   申、門弟共引連一方之防方致べき所存にて、則備立心組いたし、大筒火   薬等も用意いたし置候儀に付、先備、中備、後備と、三段に門弟を引分   候列書相見せ候。 果して此の通りであつたとすれば、消火の手筈が、却て放火の手筈となつた ものだ。但だ大塩の真意は、当初から消火でなく、放火であつたことは、如 上の言によりて、之を推察するに難くあるまい。 又た守口町の金持にて、大塩の門人たる白井孝右衛門の口供には、   九月、日不覚、大塩方へ罷越、雑話の序、平八郎申聞候は、近年異作続、   米価高直にて、諸民難渋におよび候に付ては、百姓共、一揆を可企も難   計、既に此度甲州に於て、一揆差発、当表とても、何時異変可生も難計、   左様之節は、公辺より御取押可有之儀には候得共、平八郎義も一己に罷   出、御忠節を可尽所存に有之候付、右等之手当之為め、近頃格之助に砲   術稽古為致候付、来春に相成り候はゞ、丁打をも可為致と存付、最前私   方より差送候、松木にて、大筒を拵させ候趣申聞、右大筒をも致一覧候。 と云うてゐる。 尚ほ天保七年九月頃から、彼の洗心洞は一種の挙兵準備本部となつた情態だ。 彼の門人瀬田、小泉、渡辺、近藤、河合郷右衛門、同八十次郎、吉見英太郎 の面々は、砲術と共に火薬調合法をも伝習し、大塩は特に自己の書斎、及び 格之助の居室をも、之に提供し、外人の出入を禁じて、専心之に従事せしめ た。而して庄司は南本町二丁目高上基兵衛なる者より、白焔硝五十五斤、薩 摩硫黄八斤半、棹一貫、灰五百目、鉛三貫目、鵜目硫黄八斤、鷹目硫黄三斤、 合薬五斤、松脂三斤、此の代金銀三百九十五匁と称せらる。 而して前記の如く、七月白井孝右衛門邸にて伐りたる、大松を請得て、九月 中に二巨砲を製したが、其の標本には高槻藩門人柘植半兵衛所有の百目筒を 懇望し、刀一腰、唐画一幅をもて之に代へた。大塩が斯く迄熱心して、 それ\゛/の挙兵準備をなしつゝあるを見て、彼の言葉通り、上方に暴動の 起る際に、之を鎮定する為めと見る者あらば、そは余りに無邪気過ぎたる判 断であらう。

      ――――――――――――――――――      大塩兵器の準備 火薬砲弾の製造、大砲其他武器の準備は最も必要にして、又最も人目 を惹き易し。是より先き大塩格之助、中島流砲術を玉造口定番組同心 藤重良左衛門亡父孫三郎に学び、良左衛門と相弟子たり。仍て砲術練 習に託し、九月良左衛門を招き、塾生河合八十次郎(郷左衛門男)吉 見英太郎(九郎右衛門男)等をして其門に入らしめ、明春を待ちて丁 打を行はんと声言し、瀬田済之助、小泉淵次郎、八十次郎、英太郎等 をして火薬、棒火矢の製造に著手せしめ、製法に秘密ありと称し、製 造場に鎖鑰を施し、外人の出入を許さず。北木幡町大工作兵衛を邸内 に招き、棒火矢に使用すべき長さ六尺、直径二寸許の棒二十本、長さ 三尺のもの十本を作らしめ、更に之を各長さ二尺四五寸に断たしめ、 火薬の原料たる硫黄硝石は十月以来庄司義左衛門に命じ、南本町二丁 目基兵衛より購入せしめたり。大砲は同志白井孝右衛門の伐採したる 松材を取寄せて之を製作し、(堺筋淡路町に遺棄したる口径四寸許な る木砲二門、及大塩邸内に在りし破損せる一門は此時製作のものなる べし)瀬田済之助に命じ、同組与力由比彦之進及堺桜町鉄砲鍛冶芝辻 長左衛門所有の百目筒各一挺を借入れしめ、両人より返却を求むるも 言を左右に託して返さず。又平八郎自ら高槻藩士柘植半兵衛に切望し て、某所蔵せる百目筒を刀剣画幅と交換せり。砲車三台(一台は幅二 尺長さ三尺、二台は幅一尺八寸、長さ四尺)は十二月に至り、九郎右 衛門、郷左衛門二人石材運搬用として、天満今井町仁兵衛外二名に調 製を命じ、成るに及びて大塩方に送らしめ、旌旗、提灯、草鞋等は孝 右衛門之が調達を掌りぬ。〔大阪市史〕   ――――――――――――――――――

   
 


『大阪市史 第2巻』「大塩乱」その3


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