Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.21

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その57

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第十一章 大事勃発
    五七 大塩勢の運動

自邸を焼 く 味方召集 手筈 同勢漸く 増加 北大阪大 半焼失 徒党実勢 荐りに富 豪を焼く 行進順路 大塩本隊 格之助の 部隊

話前に返る。扨も天保八年二月十九日朝、大塩は血祭りに、其の愛重したる 門人宇津木矩之允を殺し、五ツ時(午前八時)頃、格之助屋敷の塀を引倒し、 一隊を繰り出した。先づ洗心洞背後の建国寺を砲撃す、一発して爆発せず、 二発して遂ひに屋上に爆発した。斯くて火矢もて自邸を焼き、其の向側なる 浅岡邸を炮撃し、茲に天満の火の手が天に冲した。 此れが大塩が、天満の方角に火の手を見ば、必らず駈け付けよと、予じめ近 郷の恩顧の出入の者共に、申し聞けて置いたから、其の手筈を為したのだ。 是より天満橋筋を北に、長柄方面に向ひ、天満十丁目に出で、途中大砲、火 矢、炮玉を投散らし、百姓町人、何れも味方に引入れ、同勢三百人ばかり となつた。その中には中途から逃走する者もあり、又は之を奇貨として、奪 掠を事とし、酒食を貪ぼり喫する者もあり、西して与力同心町に出で、天神 町に至つた。或は同勢六七百人に達したと云ふ。〔年譜〕 此より進んで城に迫らんとしたが、橋の南端、既に切断せられたるを知るや、 直ちに西して難波橋に向うた。此日は午前南風烈しく、午後西風之を煽揚し たから、北大阪の大半は焼失した。 斯くて九ツ時(正午)大塩勢は、難波橋を南に渡つて、北船場に入る。松本 麟太夫の口書によれば、大塩格之助先陣、平八郎中軍、後陣は瀬田済之助で あり、大将分七十人余、惣人数五百人余と云ふ。然も今井克復の実見談によ れば、『本当の徒党は僅か二十人あまり』に過ぎなかつたと云へば、その余 は脅従やら、弥次馬やらにて、先づ以て烏合の衆と見る可きものであつたら う。 大阪にては大川以南長堀川以北、東は東横堀川、西は西横堀川を限りて船場 と云ひ、その中にも北船場は、金満家の淵薮にして、今橋筋、高麗橋筋には、 富豪軒を並べてゐる。大塩勢の目指す所は、此処である。乃ち炮玉や、火 矢を投げ込み、打ち込み、焼き立てた。今橋筋では鴻池屋善右衛門、鴻池屋 庄兵衛・鴻池屋善五郎等、鴻池一類、天王寺屋五郎兵衛、平野屋五兵衛等、 高麗橋筋にては、三井呉服店、岩城、升屋等、皆な此災に罹つた。杉山三平 の口書には、一手は今橋を渡り、一手は高麗橋を過ぎ、再び合し、一隊とな りて、東横堀川に沿うて南へ進み、内平野町、米屋平石衛門、米屋長兵衛等、 米屋の一党を焼払うた。然も大塩中斎年譜には曰く、   杉山三平の口書に依るに、一手は今橋を渡り、一手は高麗橋を渡り、二   軍再び合すとせるも、伝説に徴し、爆撃の跡に見るに、斯くの如く単純   ならず。今各種の資料を綜合して、軍の進路を見るに、大略左の如きか。   既に軍を分て高麗橋を進める先生の本隊は、路に三井七郎右衛門を侵し、   岩城屋某、及び島屋八郎右衛門を轟撃し、恵比寿屋、升屋等の富豪を爆   撃して、東横堀町を南に平野町に進み、西に内田惣兵衛、平野彦兵衛、   同佐兵衛、茨原屋高次郎、米屋喜兵衛、米屋彦五郎等の巨商豪戸を連焼   崩壊して、手に任せて金穀を道路に散じ、夫より堺筋に出で、淡路町に   入り、茲に暫らく軍を駐めて上町方面の情報を待つ。   一方今橋通りを東進せる大塩格之助の一隊は、路に天王寺屋五郎兵衛、   及び平野屋五郎兵衛等の豪戸を爆撃し、進で今橋を渡て、上町に出で、   東横堀を南進し、内平野町に於て、米屋平右衛門、同長兵衛、両家を轟   壊し、夫より豊後町に出で、和泉屋勘次郎を撃破し、次で大手筋に住友   甚五郎に火矢を投じて、之を焼く。既にして孤軍深く入るに気付き、是   より大手筋を圧迫して、徐々に思案橋を指して、西に下る。時に西南の   風は、中船場の火場を煽揚し、猛炎早く全市を掩ふを見る。而して此時   未だ一人城兵の影を見ざるなり。而も一支隊を以て、城中に迫て敵を求   むるの尚ほ勢足らず、且つ孤軍長く駐るの危険なるを恐れ、即ち思案橋   より再び北に示威的運動を起し、帰て本隊に合せんとす。偶ま平野橋よ   り高麗橋方面に出でんとして、忽ち堀伊賀守の一隊に会ふ。   〔大塩中斎先生年譜〕                               たくまし 兎も角も大塩等は、殆んど無人の地を行く如く、思ふ通りの運動を逞うした。

   
 


「近世日本国民史」目次/その56/その58

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ