両奉行措
置
大阪城代
の措置
城代の城
内巡視
両奉行方
の手薄
組々防禦
措置
広瀬次左
衛門
天神橋切
落し
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翻て官辺側の行動を見れば、跡部、堀の両奉行は、大塩の伯父大西与五郎に、
大塩を説き切腹せしめ、然らざれば差違へて、死せよと命じ、然も同人は養
子と共に逃亡したことは既記り通りだ。〔参照 五三〕
斯くて跡部、堀の両奉行は、如何に措置したる乎。
平八郎始、賊徒の者共、多人数手に\/白刃を携、或は大筒、小筒等烈
敷打掛、松明様の物打振、右往左往に立騒ぎ、追々組屋敷焼立、火勢強
く難近寄旨申聞候付、早速石渡彦太夫、御手洗伊右衛門(鉄炮奉行)へ
掛合、御鉄炮同心一同鉄炮を以、可払旨差図仕候得共、手足兼候付、猶
又遠藤但馬守へ掛合、両御番組与力、同心呼寄、種々手当云々。
〔跡部堀両奉行書取〕
されば彼等は先づ手を拱して、援兵を請うた訳らしい。無論彼等から此の事
を城代に報告したことは、云ふ迄もあるまい。
当時の大阪城代土井大炊頭利位は、天満方面の銃砲の音聞え、猛火各所に起
るを見て、跡部、堀の両町奉行、及び目付中川半左衛門、同犬塚太郎左衛門
に、暴徒の逮捕を命じ、打払、切捨苦しからざる旨を命じ。巳の中刻(午前
十時−十二時の間)玉造口定番遠藤但馬守、山里丸加番土井能登守、中小屋
加番井伊右京亮、青屋口米津伊勢守、雁木坂加番小笠原信濃守、東大番頭菅
沼織部正、西大番頭北條遠江守等を召集し、告げて曰く、平八郎暴動に付き、
町奉行、目付に、その鎮定を命じた。予は此れより本丸を巡視するから、各
方も宜しく準備あれと。当時京橋定番米倉丹後守、未だ著任せざるを以て、
す
玉造口定番、京橋口をも統べ、両定番の与力、同心全部を召集し、四加番は
何れも家臣を督し。又た東西大番頭は、組頭及び番衆全部を召集し、各持場
を固めた。午刻(正午)城代土井利位は定番、加番を随へ、西大番頭の導
もて、本丸を巡検し、具足奉行上田五兵衛、鉄炮奉行石渡彦太夫に命じ、具
足、鉄炮、及び玉薬の配賦に従はしめ、酉刻(午後六時)火災猛烈となるに
及び、再び定番を随へ本丸を巡視した。而して両目付中川、犬塚は、両町奉
しばし
行出兵後、城内を巡視し、又は数ば城外に出でゝ、現場を視察し、
之を城代に報告した。
さて
却説も跡部、堀の両奉行は、鉄砲同心の援助を請うたが、此れも石渡、御手
洗両奉行の配下各二十名に過ぎない。されば愈よ其の力の足らざるを見て、
玉造口定番遠藤但馬守に交渉して、其の援助を求めしめた。元来玉造口、京
橋口とも、与力二十騎、同心百人宛にて、当初は定番より是等は城を守る為
ことわ
めのものなれば、町奉行には貸すことは相成ぬと理りたれども、城代よりの
差図にて、漸く午後に至りて与力二人、同心三十人宛貸すこととした。而し
てそれを引率して、大塩の焼き立る場所へ向つたのは、十九日午後四時頃で、
両奉行共、身ごしらへは、火事装束の下に著込み、家来も同様火事羽織の下
へは、具足鎖り鉢巻等にて出掛けた。〔今井克復談話〕
斯くて玉造組は、同心支配役坂本鉉之助、平与力蒲生熊次郎、本多為助二人
を誘ひ、同心三十人を率ゐ、与力には十匁筒、同心には三匁五分筒を携へし
みち
め、玉造口門外土橋の側に集合せしめ、之を率ゐて先づ発し、途に同心小頭
二人を召集し、城濠に沿ひ、東町奉行所に至つた。然も跡部は鉱之助等の来
援を促すこと、三回に及んだ。而して鉉之助等は、それ\゛/東町奉行所の
警戒を厳にし、それ\゛/防禦の手段を尽した。然るに京橋口同心支配広瀬
次左衛門、馬場佐十郎は、城門警衛の任に当る譜代同様の組にして、町奉行
の指揮に従ふは、組柄を辱しむるものであるとか、城門を離れて、奉行所を
守り、之に死するは、犬死に等しとか、種々の口実を設け、飽迄之を拒み、
尚ほ玉造口の坂本鉉之助を説いて、之に同意せしめんとしたが、鉉之助が応
じなかつたから、大いに怒りつゝも、今は是非なく与力二人、同心三十人を
率ゐて、再び東町奉行所門前に至つた。然も組支配広瀬次左衛門は、雪駄穿
きにて鉄炮さへも携へなかつたと云へば、其の泰平武士の模様、以て想ふ可
しだ。
跡部は自己組下の与力、同心に、大塩の与党あるを見て、頗る危惧の念を懐
おもんばか
き、又た坂本鉉之助等の来援しても、其中に大塩一味の者あらんことを慮り、
遂ひに杣人足を遣して、天神橋を切落さしめた。
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