Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その56

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    五六 宇津木矩之允の死に関する別説

又別説 暴動当日 早朝の状 況 矩之允覚 悟 良之進脱 出 矩之允疵 所 従吾軒談 話との異 同 間違なき 事実 宇津木の 態度

尚ほ前記岡田良之進の所説を、根本資料として記したるものに、左の如き別 説がある。   暴動の当日、朝六ツ半時家内の建具を打壊す音に目を醒し、何事かと訝   る間もなく、役立たぬ者は討捨てて仕舞へといふ声に吃驚し、飛起きて       ふしど   矩之允の臥床に近寄り、其旨を告ぐると、矩之允も承知の体にて、声を   潜め、我師は短気の性分にて、平生門人を教へるにも、抜身を振廻はす   やうな事もあるが。未明からの教授でもあるまいし、其上昨夜深更面会   の節、若し天下異変起らば、如何身を処置するかと問はれた事を考合す   と、何様大事を企て居る如く見ゆるが。昨夜はたゞ不審に心得たるのみ   にて、碇と我師の心底を見極めたとはいへず。今一度と心懸けて居つた   所、今朝の騒動、此上は時宜によつて師恩に頓著なく、平八郎を討捨て、   拙者も即座に自殺するにつき、兼て京都東本願寺家臣粟津陸奥之助に貸   置ける詩集を受取り、此碑文〔参照 五四〕と共に、兄下総の家来大林   権之進に渡し呉れよ、碑文中には、矩之允が最後の遺腸を認めてあると   いつて、即座に美濃紙二枚続に、一篇の漢文を認め、良之進に手渡した。   良之進は吃驚して、尚よく事情を聞糺さうとする中に、矩之允は便所へ   立ち、又塾外では大井正一郎と安田図書との話声が聞える。先生の御申   付により矩之允を殺す、若し逃出すやうなことがあつたら、取押へてく   れろとの正一郎の声音だ。彼(岡田)は慌てゝ便所へ赴き、右の次第を   告げると、承知して居る。最早立退く隙もないが、正一郎を出抜き、今   一度平八郎に面会したく、隠れて居る次第、其方は見咎められざるやう   立退けと言はれたが、良之進は猶予決し兼てゐると、矩之允の為を思   はゞ、速かに立退き、最前の碑文を、権之進に渡しくれよ、然らずば我   が心事の潔白は知れ難しと、再三の言葉に、漸く気を取直し、塾中に取   つて還し、混雑に紛れて裏口から抜出した。正一郎は図書と相談の上、   彼を塾外に見張番とし、自分は進んで便所口に待つてゐたが、一向出で   来る気合の無いので、刀片手に、戸を明けながら、先生のお差図と声を                      よろめ   かけ、立上つて来る矩之允の胸元を刺し、蹌踉く所を斬付け、乗掛つて   止を刺し、矩之允を討留めたりと高声に呼ばつた。乱後矩之允の屍を検   視したら、疵所は百会の後、竪に六寸程切疵一ケ所、臍の上より背へ一   寸程突疵一ケ所、咽喉に二寸程、左の腕に一寸程突疵二ケ所であつたと   いふ。辛ふじて裏口から抜出した良之進は、正一郎の声を聞き、師匠の   敵、其儘に置難しと思へど、遺言の旨も獣止し難く。一途に京都へ駈付   け、二十日陸奥之助の手許から詩集を受取り、翌廿一日彦根へ赴き、権   之進に面会して、一部始終を物語り、碑文詩集を渡したと云ふ。〔幸田   著、大塩平八郎〕 此れは岡田良之進の申立を、評定所吟味書から援き来り、前記田中従吾軒の 談話と湊合して記したるものと云ふが。然も斉しく岡田の所説にしても、前 記田中の談話とは、異同がある。前者は大塩自から手を下だしたとし、後者 は大井をして其事に当らしめたと云ふ。同一の岡田から、斯く異りたる説の 出で来るは、如何にも不思議である。 併し大体に於て、大塩が其の愛弟子宇津木矩之允をして、此挙に与みせしめ んと欲し、而して宇津木は断々乎として、之を拒否し、その自から信守する 所の為めに殉した事だけは、其事の順序が如何にせよ、彼が前夜大塩邸に至 りたるにせよ、前年より寄宿しゐたにせよ、将た槍にもせよ、刀にもせよ、 其の下手人が大塩にもせよ、大井にもせよ、それ丈は間違なき昭々たる事実 だ。 之を平山助次郎や、吉見九郎右衛門の裏切者に比して、実に大塩門下にも、 其人ありとせねばならぬ。最後の剰那に於て、平生相得たる師弟が、互ひに 殺者となり、被殺者となるは、実に千古の悲劇とせねばならぬ。宇津木の如     きは、啻だに道を信ずるの学者たるに恥ぢざるのみならず、亦た其師を辱か しめざる者と云はねばならぬ。

   
 


幸田成友『大塩平八郎』その128


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