Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その69

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

第十三章 大塩事件に対する世評     六九 大塩父子の宣告文

宣告本文 平八郎行 状を発く 不平の志 を煽す 愚民誑惑 吟味長引 き 宣告文の 愚劣 事体を弁 ぜず

      るゐせつ 大塩父子は、縲絏の辱を受けずして、自滅した。而して此の父子の亡骸に向 つて、幕府は如何なる宣告を与へた乎。今ま其の宣告文なるものを見るに、 左の通りだ。                  跡部山城守組与力                  大塩格之助養父                        大塩平八郎                     右                        大塩格之助   右の者共儀、平八郎は表に謹厳之行状を餝り、文武忠孝之道を講ながら、   内実養子格之助え可嫁合約束にて養置、摂州般若寺村忠兵衛娘みねと及   奸通、殊諸人之信用に随ひ、慢心を生じ、軽き身分不顧、御政道を批判   いたし、其上浅はか成儀なれども、不容易謀計を企、師命を称し、愚昧   之門弟等を威伏為致、追而米価高直諸民難渋之折を窺ひ、仁慈を行ふ存   方に托し、又は同組与力同心等之気合を量り、品々奸舌を以、不平之志   を募らし、夫々一味連判に引入、猶人気為靡候ため、所持之書籍、其余   播州兵庫西出町長太夫等申掠、出金為致買調候書類をも売払、一己の慈   善に申成、右代金難渋人へ施遣、或は反賊之名聞を厭ひ、諸民を惑乱可   為致ため、無思慮大言をつゞり、不軽文意をも認載候檄文、村々え為捨   置、剰名家之末孫抔申触し、救民計義と偽唱へ、計策を以、奉行を討取、   大坂の御城を始め、、諸役所並市中をも焼払、豪家之金銀、窮民え分与   へ、一且同国甲山え可楯籠旨申合、右企露顕之期に至り、逆意に不随門   弟宇津木矩之允を為及殺害、一味加担之もの共、一同兵具を帯、鎗長刀   等携、恐多文字書記候籏押立、百姓共を申威、多人数徒党を結、大筒火   矢等打放ち、所々放火乱妨および、捕方役人え敵対いたし。格之助儀も   右体之企申合、愚民を誑惑いたし、平八郎倶々反賊之所業におよび、捕   方人数に被討立、銘々迯去候後、大坂油掛町五郎兵衛申威、同人方に忍   罷在候始末、不恐公儀仕方、重々不届至極に付、両人とも塩詰之死骸、   引廻之上、於大坂磔に行ふもの也。    戌九月 事件は天保八年二月十九日だ。大塩の自滅は三月廿七日だ。然るに其の宣告 の日附は、天保九年九月である。其間の事件に関する吟味の長引きたること、 以て思ひやらるゝ。   去年夏水無月(六月)の末つかたは、都に赴く罪人等御吟味中、大かた   残り少に死果ければ、屍諸とも今年菊月(九月)十四日、大坂へ召し来   り、同十八日天王寺飛田に於て、御仕置被仰付ける。[天保実録] とある。即ち大塩父子以下、徒党十七名の死骸に向つて、同時に宣告せられ たものだ。此の宣告文程、愚劣なるものは、其類少いであらう。之を一読す れば、当時幕府に人無きことが分明だ。固より此の宣告文は、当時に於ても、 決して識者の満足を来たしたものではなかつた。大塩の味方でなき者、少く とも大塩の蜂起を不是としたるものさへも、此れには異存を懐いたものが少 くない。乃ち其の中には、矢部定謙やら、坂本鉉之助の如きがある。 大塩の罪は、天下の法度を壊りたる公罪だ。それを咎め、それを処分するに、 誰しも異議を言ふ可きものはあるまい。然もそれは公罪である、之を審判す るには、何処迄も、其の範囲に於てせねばならない。然るに其の宣告文に、 私行迄も発くとは、何たる事体を弁へない仕方であらう。特に死人に口なし、 何人も彼の為めに弁護する者なきを奇貨とし、風説や、若しくは為めにする ことありと思はるゝ書付(裏切者吉見九郎右衛門 参照 五二)に拠りて、 軽々に之を宣告文に明記するが如きは、実に言語道断の仕方と云はねばなら ぬ。況んや彼は只だ幕吏や、豪富等に対して、打撃を加へんとしたるものに して、決して徳川幕府を根本から倒さんと試みたるものではない。然るに彼 を謀反人としたるは、実に幕府に取りて、罪案審判の要点を誤りたるものだ。

   
 


「近世日本国民史」目次/その68/その70

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