Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その70

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    七〇 宣告文に対する批判

矢部定謙 の評 平八郎の 肝癪 矢部の建 議 罪案の不 当 坂本の評 合点参ら ぬ罪案 格之助の 恭敬 大塩父子 の情愛 幕府人無 し

矢部定謙は、大塩に取りては、曾て直接の長官ではなかつたが、長官筋であ つた。(大塩は東組与力、矢部は西町奉行)而して両者は互ひに相知つてゐ た。   矢部曰、平八郎叛逆人といへども、駿河守(矢部)が案には、叛逆とは   不存候。平八郎は所謂肝癪の甚しき者なり。‥‥彼実に叛逆を謀らんに   は、いかで、大坂の御城へ籠らざることのあるべき。大坂御手薄の事、   門番の事等、年来大塩苦心の事なりとぞ然るに御城へは不入して、棒火   矢を以て焼払ひたるは何ぞや。某(矢部)甞て平八郎を招き、共に食を                   あぶ   喫せしに、折節金頭と云へる大魚を炙り出せり。時に平八郎憂国の談に   及び、忠憤のあまり、怒髪衝冠ともいふべきありさま故、余種々慰諭し   けれども、平八郎ます\/憤り、金頭の首より尾までわり\/噛砕きて   食ひたり。‥‥此一事小なりと雖も、平八郎の為人を知るに足れり。た   とへば人過あるとき、再三反覆して之を諫むるは忠といふべし。再三忠   告せる上にも、其人不用とて之を憤りて、坐にあり合へる火鉢などを、   其人の面へ投るは、不敬の至極なり。初には其人を愛するあまりに忠告   し、後には其面体へ疵を付けなば、安んぞ其人を愛するにあらん。平八   郎も初は忠告すれども、用ひられざるを憤り、叛逆に均しき禍乱を企し   は此類なり。   されば余勘定奉行たりしとき、此議を主張し、何とぞ叛逆の科を除き、   大不敬の罪に処したきものと建議せしが、其議用ひられざるのみならず、                      そし   某も叛逆人に身を持つやうに、当路にては譏りたりとぞ。   平八郎の罪状を数へたる中に、子の婦にせんと養ひたる女へ奸通の事あ   り。某は平八郎の事よく知りたるが、其女は近郷農民の子なり。平八郎   は身を持たる者なり。実に子に配せんとならば身を持たる者より約すべ   きなり。是は全く下女に置きたるを妾になしたるに、何の仔細もなきに   似たり。其上仮令その事聊疑ふべき事あるにもせよ、平八郎を拷問し、   其罪に伏したるにもあちず。罪状を責むるもさる事なれども、其人既に   自ら焚死黒焼になりたる平八郎へ、如此罪状を与ふるは、公裁とはいひ   難し。人心の霊、愚夫愚婦までも、今に平八郎様と称するは、陰に其徳   を仰ぐにあらずや。されば駿河守其事を仕置せんに、却て平八郎年来の   忠慣はさることながら、憤激のあまり其跡判逆に等しきことを仕出した   るは、上をも不畏、大不敬といへる事にて、裁判せば、平八郎死せりと   いへども、甘じて其罪を受け、又大坂の人心をも圧倒すべしと、窃かに   扼腕して語れり。〔東湖随筆〕 以上矢部の批判は、一々尤と云はねばならぬ。尚ほ大塩の知友にして、大塩 騒動の際は、討手方として殊動者の一人、坂本鉉之助は左の如く云うてゐる。   平八郎の罪状の中に、忰格之助妻を、平八郎密通致し、弓太郎と申格之   助の忰は、実は平八郎の子なり。かく人倫の猥濫なる罪も有之趣、罪状   に書き出されしが、是は徒党の中より、訴人に出でたる者の申口にて、   何がな師匠平八郎の事を、悪敷申為さんと申たることにて、必竟は犬の   迯吠と申ものなるべし。此一條は、平八郎学文の弟子共の中に、貞(坂   本)が存じたる両三人も、更に左様の事はあるまじくと申ものあり。貞   が心中に、是は一向に、合点参らず、罪状に何故ケ様の事迄書載られし   事か。大坂市中の者抔、平八郎の事を難有がるもの多き故、其人気をく   じく為か。‥‥仮令実にもせよ、其身一分の科にて、此度の罪科に申さ   ば、枝葉の事なり。書載られずとも然るべく、況や其事実にもあらずば、   猶更なり。貞が合点が参らぬと申子細は、格之助といふは、同組西田某   が家より大塩へ養子になりし人にて、通例の人物なり。然る処、貞大塩   へ参り、平八郎へ対面致し候節、格之助当番の出掛、又は帰宅の砌は、   平八郎へ必ず出入を告ぐることなり。其の様子を見るに、如何にも、養   父の前にて殷懃丁寧の様子、信実養父を敬礼の体にて、次の間、敷居の   外より謹で出入を告げ、‥‥其の恭敬の容体実に感心のことなり。‥‥   此大塩父子の如くあらば、如何に義子なればとて、親の慈愛も日々に厚   かるべく、子の孝敬も月々に深かるべく、是全く礼義の能為す所なりと、   其時甚感服せし事なり。扨騒動の時、外に一味の人々とは、大和路辺に   て、悉く分散して、平八郎、格之助両人ひそかに立戻りて、油掛町に潜   み居、既に現はれて捕人のかゝりし時も、格之助の自殺を平八郎手伝、   其上畳二畳格之助の死体の上へ建掛て火を付、平八郎其後自殺のよしな   り。平八郎も実に我子なりと慈愛して頼に思へばこそ、此所迄も格之助   を離さず。格之助は実に我親なりと恩愛の情あればこそ、此所までも離   れず付添たり。此の父子の情に於ては、貞が数年以前に感服せし所に、     たが   少も差はず。果して親子の情は厚かりし、肉親の父子も及がたき情合な   り。是を以察するに、格之助の妻に平八郎が密通して、弓太郎を産せた   るを、世間へは矢張格之助の子と称し置たる抔は、決して無きことにて、   若左様の事のあらんには、格之助の内心に、などて挟まであるべき。かゝ   る無礼無義の事を、父子の間に、心に挟みたらば、などてかく父子の情   の厚かるべき。子細は更に無き事なり。〔咬菜秘記〕 以上坂本の所説は、如何にも常識判断として、尤と思はるゝ。何れにしても 大塩父子に対する宣告文は、幕府に人無きを暴露してゐる。

   
 


坂本鉉之助「咬菜秘記」その4


「近世日本国民史」目次/その69/その71

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