Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.5.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『近世日本国民史 文政天保時代』

その71

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1935

◇禁転載◇

    七一 大塩の檄文 (一)

大塩直接 行動の原 因 檄文本文 諸役人の 驕奢収賄 怨気天に 通ず 右要領 近頃の悪 政 奉行等の 不仁 富家の驕 奢 禄盗

抑も大塩平八郎は、何の為めに一味徒党を駆り催して、直接行動を敢てした る乎。その原因若しくは理由に就ては、種々の説がある。されど吾人ほ誰よ りも先づ当人の所見を聞かねばならぬ。然も当人の所見は、所謂る当時の檄 文に徴するの外はあるまい。 抑も此の椒文は、黄き絹袋の裡に入れ、その袋の表面には、   天より被下候、村々小前のものに至迄へ と記してある。而して其の内容は、左の通りである。   四海こんきういたし候はゞ、天禄ながくたゝん。小人に国家をおさめし   めば、災害並至と、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たる者を、御   誡被置候ゆへ、東照神君にも、鰊寡孤独にたいして、尤あわれみを加ふ   べきは、是仁政の基と被仰置候。然るに茲三百四五十年、太平之間に、   追々上たる人驕奢とて、おごりを極、太切之政事に携候諸役人ども、賄   賂を公に授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき   拙き身分にて、立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已に智術   を運し、其領分知行所之民百姓共へ、過分之用金申付、是迄年貢諸役の   甚しき苦む上え、右之通無体之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ、四海   の困窮と相成候付、人々上を怨ざるものなき様に成行候得共、江戸表よ   り諸国一同、右之風儀に落入、   天子は足利家已来、別而御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民之   怨、何方へ告愬とて、つげ訴ふる方なき様乱候付、人々之怨気天に通じ、   年々地震、火災、山も崩、水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に   五穀飢饉に相成候。是皆天より深く御誡之有がたき御告に候へども、一   向上たる人々心も付ず。猶小人奸者之輩大切之政を執行、只下を悩し、   金米を取たてる手段計に打懸り、実以小前百姓共のなんぎを、吾等如き   もの、草の蔭より常に察し悲候得ども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子   の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候処。                                こぞ 以上は従来の日本の情勢を、概括的に陳べたるもの。乃ち君臣上下相挙りて、 驕奢を事とし苛斂誅求、止まる所を知らず、小民を困しめ。小民は之を訴ふ るの相手なく、其の憤怨の気結んで、天災地禍となり、地震、火災、洪水等 出で来つた。而して是れ則ち天の誡めである。然るにそれに頓著なく、弥よ 其の悪政を増長せしめてゐる。要するに彼が時事を憤慨したる所を一掃的に 開陳したるもの。   此節米価弥高直に相成、大坂之奉行並諸役人ども、万物一体の仁を忘れ、   得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所之京都へは   廻米之世話も不致而已ならず、五升一斗位の米を買に下り候もの共を召   捕抔いたし、実に昔葛伯といふ大名、其農人の弁当を持運候小児を殺候   も同様、言語道断、何れの土地にても、人民は徳川家御支配之ものに相   違なき所。如此隔を付候は、全奉行等之不仁にて、其上勝手我儘之触書   等を度々差出し、大坂市中游民計を太切に心得候は、前にも申通、道徳   仁義を不存、拙き身故にて、甚以厚ケ間敷不届之至、且三都之内、大坂   之金持共、年来諸大名へかし付候利徳之金銀並扶持米等を莫大に掠取、   未曾有之有福に暮し、町人之身を以、大家之家老用人格等に取用、又は   自己之田畑新田等を夥しく所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を   見ながら、畏も不致、餓死之貧人乞食をも敢而不救、其身は膏梁之味と   て、結構之物を食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名之家来を誘   引参り、高価の酒を、湯水を呑も同様にいたし、此難渋の時節に絹服を   まとひ、かわらものを、妓女と共に迎へ、平生同様に游楽に耽候は、何   等之事哉。紂王長夜の酒盛も同事、其所之諸役人手に握居候政を以、右   之もの共を取〆、下民を救候義も難出来、日々堂島相場計をいじり事い   たし、実に禄盗に而、決而天道聖人之御心に難叶、御赦しなき事に候。 以上は現在の事情に付て、最早辛抱出来かぬる旨を言明してゐる。

   
 


檄文


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