Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.11.30
2002.7.15訂正

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「洗心洞通信 33」

大塩研究 第42号』2000.11 より

◇禁転載◇

 

◇大塩中斎忌法要・講演と研究会総会

 二○○○年三月二五日午後一三○分から成正寺本堂において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友信住職の回向によって営まれ、本堂前の記念碑、本堂裏の大塩家墓所に展墓した。

 その後本会主催の護演が行われ、大阪市立大学文学部助教授の塚田孝先生が「近世大坂の非人について」と題して、詳論した。

 大坂の非人の成立とその展開のあらましを説明、それと関連づけて「建議書」に入っている大坂周辺の番人に関する史料を解説した。

 周知のとおり、大坂には四か所と呼ばれる垣内(天王寺・鳶田・道頓堀・天満)があり、これらの垣内は、長吏・小頭/若キ者/弟子から構成され(摂河播の村々には番人)、秀吉の文禄三年の検地で天王寺が垣内屋敷を免除してもらったのを皮切りに、大坂での都市形成と並行するように、鳶田・道頓堀・天満と次々に垣内屋敷が与えられ、四か所が成立した。成立した当初は、道頓堀が転びキリシタンなどで占められたように、その中核は他国生まれの人々であった。四ケ所のその後の展開は、非人の御用として、町奉行の職務である盗賊方や町回り方の下役を務めるようになるとともに、垣内番が株として機能し、売買の対象にもなり、当然垣内株=家督として扱われるようになった。

 次に、大塩の「建議書」の中にある「元矢部駿河守組与力内山彦次郎身分捨訴」という史料を取り上げ、内山彦次郎、悪辣な非人頭、四ケ所の者・番人ら、篇実な作兵衛や罪に落とされた者、与力・同心らの悪行や非人頭らの非道、という全体構成を整理しながら、非人について当時の有り様を具体的に表現していると解説した。しかし、この難解な捨訴は、摂河の役人や番人弥七が書いたとは思われない。大塩本人かその周辺の人ではないかと、最後に問題提起された。

 小憩のあと、午後四時一五分から総会が開かれた。酒井会長の挨拶のあと、井形副会長から一九九九年度の会務報告があり、@昨年に引き続き開催した連続歴史セミナー、A豊中市教育委員会主催の「大塩平八郎に学ぶ」の連続講演会に酒井会長、向江・井形両副会長を講師に派遣、B「大塩の乱関係資料を読む会」が先月で一二七回を数えた。C「大塩平八郎と天満」のイベント、が報告された。

 続いて向江副会長から、二○○○年度の活動方針として、@創立二五周年を迎えての記念行事の開催、A『大塩平八郎を解く―25話―』の姉妹編として資料集の編集、B学習会・講演会などの例会を年一、二回開く、Cフィールドワークを年一、二回実施する、D会誌を年二回刊行する、E「資料を読む会」の活動を推進し、引続き「塩逆述」を読む、などが提起された。

 ついで久保委員から会計報告があり、会計監査報告は大和浩監査委員から相蘇一弘委員とともに実施した内容が報告された。

 以上、一九九九年度活動報告、二○○○年度活動方針、 一九九九年度会計報告、会計監査報告は一括して拍手で承認された。

◇平野郷を訪ねる

 六月一八日開催のフイールドワーク「平野郷を訪ねる」は、史跡見学と講演の二本建ての催しであった。村田隆志氏(大阪府文化財愛護推進委員)による案内、講演は本会会長酒井一氏が行った。

 見学コースは地下鉄平野駅→旧南海平野駅→光永寺→長宝寺→坂上広野屋敷跡→今野邸→西末吉邸→大念仏寺→全興寺→平野郷惣会所跡→願正寺→赤留比売命神社→平野黄金水→樋尻口→安藤正次墓→含翠堂→阪井家→満願寺→長宝寺・全興寺・西末吉家墓→杭全神社。

 大塩との関係で興味深かったのは、西末吉家墓であった。ここに大塩父子の隠れ家の露見につながった末吉平左衛門の墓碑がある。平左衛門は大和名柄村高橋宗邦の次子で、末吉孫四郎(道隣)の養子となり、末吉家を継ぎ、平左衛門と称した。梓文に「塩賊の乱翁立偉功前後賜俸九口」と刻まれている。

 この墓碑を発見したのは、故島野三千穂氏で、『大塩研究』第二五号(一九八九・三)で明らかにされた。村田氏はこの日、当然島野氏が来ると思って楽しみにされていたのが、昨年亡くなられた事を知らされて、非常に残念がられた。志を同じくする在野の歴史研究家の熱い想いが感じられた。

 「平野郷と大塩の乱」と題した酒井会長の講演は、杭全神社のご厚意で同神社の一室をお借りして行われた。平野郷と近世史研究、下総国古河の土井氏領と上方、上方領古河藩領と平野郷、大塩の乱と平野郷、上知令の失敗と天保改革の挫折について、詳述した。

 大塩を考える場合、大塩がいかに闘ったかだけでなく、大塩が向かい合っていた人がどうであったかも、考慮に入れる必要があるとして、時の大坂城代土井利位とその家老鷹見泉石について詳しく触れ、土井が顕微鏡で覗いていたのは、雪の結晶だけではなかった。蘭名を持つ鷹見泉石は、鎖国の中にあって世界を見ていた幕府側の一人であろう。そして、この土井が、天保改革の上知令の推進派から反対派に回り、水野忠邦を失脚に追い込み、結局天保改革を挫折させることになった。明治維新まで、わずか二五年前のことである。天保改革とその破綻によって、幕府は基本的に崩れる方向が出てきて、黒船がやってきた。決して黒船が来て幕府が潰れたのではないと。平野という地域をフィールドバックにして、時代の流れを縦糸に、大塩と対立する土井と泉石の事歴を横糸に、織り成された興味深い講演であった。

 閉会後、村田氏の案内で希望者のみが庄司儀左衛門の生家を訪れた。場所は、東瓜破村出戸(出郷)の成本(現在の瓜破東二丁目)である。あいにくお留守だったので、調査はまたの機会に譲り、成本天神社に参拝した。

◇新聞記事

 『毎日新聞』の二○○○年五月二七日付夕刊に、相蘇一弘氏が、「大塩自身が江戸で高い地位に就くために行った猟官活動に失敗し、幕府に恨みを持っていた」とする説を、誤解として退けたことを、紹介している。相蘇氏は、大塩平八郎の書簡の分析を通じて、幕府の学問所(湯島)を大塩が批判したことで、儒学者との間で論争が勃発しており、陽明学者だった大塩を江戸に呼ぼうとしたのは学問の論争のためだった。大塩は辞職後、大坂発の書簡を多数出しているうえ、名古屋の本家を二度訪問しており、時間的に江戸には行けなかったとして、「猟官運動説は後世の憶測や史料解読ミスが原因」と分析している。
        (以上和田)

◇大塩の戯曲

 一九九七年の「乱一六○年記念」に、本誌の「平成の檄文」に応募され入賞した井上満寿夫氏から、本会に西日本戯曲選集B『ドラマの森』(西日本劇作家の会編)が寄贈された。同氏の「浪華一揆大塩乱始末」が掲載されている。一九七三年一○月「劇団大阪」が公演したものに、改訂を加えたもので七○余ページに及ぶ労作。   (久保)

◇古河市を訪ねて

 一○月二、三日の二日間、大阪城代土井利位の本領、茨城県の古河市を訪ねた。かつて土井家の所領であった大阪平野郷一行の方々に随伴しての旅であった。本研究会からは、酒井一会長、向江強副会長(井形正寿副会長が急病のため代理)、尾崎真二郎委員の三名が参加した。 古河では、古河郷士史研究会あげての歓待に感激、大塩にゆかりの深い鷹見泉石の事跡などを見学した。古河歴史博物館に所蔵する鷹見泉石日記がここ数年のうちに印刷刊行されるということで、期待したい。今回の訪問で心に残ったのは、田中正造がたたかった足尾銅山公害事件の現地旧谷中村の遺跡に出会えたことであった。熊沢蕃山の墓、古河公方館跡のある古河総合公園なども印象深かった。

 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』えがく古河公方館芳流閣上、死闘を演じた犬塚信乃・犬飼見八に思いを馳せつつ、有意義な古河訪問の旅を終えた。最後にお世話になった古河郷土史研究会の方々と平野郷の参加者の皆さんに深甚の謝意をささげたい。(向江)


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