Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.12.16訂正
2002.7.15

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「洗心洞通信 34」

大塩研究 第45号』2002.3 より

◇禁転載◇


◇国際陽明学京都会議

 九七年八月一一日〜一三日に京都宝ケ池の国立京都国際会館で、主催将来世代総合研究所、後援京都フォーラム・将来世代国際財団のもとで「二十一世紀の地球と人類に貢献する陽明学」の会議が開催された。議長は岡田武彦氏(九州大学名誉教授)、副議長は湯一介(中国北京大学中国哲学与文化研究所所長・教授)・宋河環(韓国陽明学会長・韓国成均館大学校教授)・溝口雄三(大東文化大学教授・東京大学名誉教授)・稲盛和夫(京セラ株式会社名誉会長)・金泰昌(将来世代総合研究所所長)で、全体会議を軸に文化会議が開かれ、陽明学について日本(九州大、東北大関係者多し)はもちろん、中国・台湾・韓国・ロシア・アメリカ・カナダ等の学者の専門的な意見の交換があり、さらに実践課題へと論議が展開した。

 第一日に福田殖氏(久留米大学教授)が、「日本陽明学の特色」として、まず大塩平八郎から始めて中江藤樹、熊沢蕃山を対象に、庶民の生活に指針を示した藤樹学に日本的陽明学の受容の特色を示した。

 第三日には林田明大氏(著述業)が陽明学の全国の研究組織を紹介したなかで、冒頭本会が作成した大塩檄文の複製を掲げて研究会を紹介した。

 本会へは、会議直前になって林田氏から会の活動について問い合わせがあり、会誌、パンフなどの資料を提供したが、さらに復刻檄文やピデオの求めがあり、協力した。

 事前にまとめられたこの会議への六九名の意見を見ると、実に一一名が何らかの形で大塩平八郎に触れており、その関心の高さに改めて考えさせられた。陽明学研究に大塩の思想と実践の解明は不可欠であり、今後陽明学の専門家との交流の必要を痛感させ られた。

◇創立二五周年記念講演会と懇親会

 二〇〇〇年一一月一九日大阪府教育会館で実施された。概要は本誌第四三号をご覧下さい。

◇大塩中斎忌法要・講演と研究会総会

 二〇〇一年三月二四日午後一時三〇分から成正寺本堂において、同寺主催の大塩父子及関係殉難者怨親平等慰霊法要が有光友信住職によって営まれ、本堂前の記念碑、本堂裏の大塩家墓所に展墓した。

 その後本会主催の講演が行われ、閲西大学教授薮田貫氏が「新見正路と大塩平八郎」と題して講演した。要旨は本誌第四四号に掲載されているので参照されたい。

 小憩のあと、総会が開かれた。酒井会長挨拶の後、井形副会長から会務報告があり、例会を六月に平野郷、一〇月にその関連で茨城県古河市をたずねたこと、一一月に会創立二五周年記念行事が行われたこと、会誌を予定通り四二号、四三号発刊したことな どが報告された。続いて会計報告に移り久保委員が、会詰四三号掲載の報告書をもとに報告、大和会計監査委員から適正に執行されている旨の報告がなされ拍手で承認された。

 次年度の活動方針として、久保委員から例会は六月の生野猪飼野探訪、九月頃に八尾市周辺、さらに神戸市須磨区の車村付近の例会が予定されていること、会誌も年二回刊行するように努めることが提案された。また、井形副会長からは昨年二月実施された天神橋筋商店街との共催によるイベントを今後定着するよう模索してゆくことも報告された。

 本例会には劇団大阪の関係者が出席され、以前上演されたことのある、本会会員の井上満寿夫氏の『浪華一揆大塩乱始末』を一二月頃を目途に新しい内容で再演するので、本会の協力を要請したい旨の挨拶がなされた。

 本年は委員の改選期に当たるため、委員候補者が提案され、原案通り拍手で承認された。

二〇〇一年研究会委員
 顧問有光友信
会長 酒井一 副会長 井形正寿、向江強
事務局担当 久保在久
委員 石橋彦徳、泉谷昭、大塩二郎、尾崎真二郎、島田耕、島野穣、中瀬寿一、藪田貫、和田義久
会計監査 相蘇一弘、政埜隆雄

(当日の出席者〉敬称略
(略)
計三八名

◇猪飼野を訪ねる

 二〇〇一年六月三日午後、JR鶴橋駅集合で実施された。足代健二郎氏の案内で、木村司馬之助、権右衛門関連の史跡を中心に見学した。概要は、本誌第四四号(二〇〇一年九月)掲載の「案内記」を参照願います。

 続いて、「猪飼野保存会館」(桃谷三丁目)で講演会に移り、荒木傅氏が「猪飼野と木村権右衛門」、酒井一本会会長(三重大学名誉教授)が、「大塩の乱と猪飼野」と題して講演された。荒木氏の講演概概要は、本誌第四四号」をご覧下さい。

 酒井氏の講演は大坂三郷を取り巻く東成、西成、住吉郡の重要性について触れた後、大村であった猪飼野村においては享保から明和期にかけて、農民層分解が進み、富農と小作貧民層との分化が起きたこと、その中で国訴にも触れつつ、木村家が台頭してきた背景を明らかにした。大塩の乱との関連では司馬之助とその息、司哥之助について説明され、大塩が近郷の重要な村々に着目して、門人を組織し、仁に基づく哲学を教えていったことを指摘した。講演要旨は、本誌に掲載予定である。

〈当日の参加者〉 略
計八〇名

◇八尾弓削を防ねる

 〇一年九月九日に八尾で講演会と見学会を実施した。JR関西本線志紀駅に集合し、午後二時から志紀コミュニテイセンターで、森田康夫氏(樟蔭東女子短大)による「弓削村の西村履三郎と『洗心洞唐宋明清名家詩選』の世界より」と題する講演会を開 いた(詳細は本号所収)。会場には履三郎関係の貴重な左殿家文書数点が展示され、関心を高めた。その後同氏の案内で、隠岐の流刑地から戻った西村姓改め左殿氏が他の村民とともに奉納した半鏡のある聞法寺、履三郎の生家左殿家、履三郎・由美の墓碑 のある弓削霊園、大和川用水問題の義民西村市郎右衛門の碑、弓削神社を回り、大塩の乱に加わった河内有数の豪農を偲んだ。

〈当日の参加者〉 略
計五四名

◇青谷寺界隈を訪ねる

 二〇〇一年一〇月一四日実施された。初瀬の門前町・宿場を経て、大和玉仙閣美術館を見学した。館長の岸本嘉郎氏の案内で、同氏のコレクションを中心に説明を受けた後、酒井一会長が、「長谷寺門前旅籠で邂逅した大塩党の人たち」の能登半島福浦ま で逃亡した深尾才次郎、大井正一郎、無宿(日雇稼)新兵衛、曽我岩蔵について解説した。続いて同館蔵の扇面の「大塩平八郎後素賛・頼山陽画淀川舟行」の懇切な解説がなされ、参考として藤井降氏蔵の大塩原詩(七絶二首)、井形正寿氏から提供された『陽明』(一九一八年二月)所載の「洗心洞主人書」についても、そのコピーを示して解説した。この日大塩の原書幅を所蔵されている藤井夫妻も参加した。この扇面書画については、『読売新聞』奈良版二〇〇一年八月二〇日号に写真入りで報道された。また、金沢から長山直治氏が加わり、能登半島、金沢について説明した。

〈当日の参加者〉略
計二九名

◇大和郡山を訪ねる

 二〇〇一年一一月一八日午後、大和郡山で講演と見学を実施した。郡山城内にある木造の市民会館で、長田光男氏(大和郡山市文化財審議会会長)が「大和郡山藩と城下町」と題して、豊臣秀長以来の築城と町づくりについて丁寧に平明な解説をした。ついで酒井一氏(本会会長)が「大和郡山藩と大塩平八郎−藤川晴貞と小泉淵次郎のことなど−」について報告した。郡山藩の儒者藤川冬斎(晴貞)は大塩と交流し、大塩の著作『儒門空虚聚語』の附録(天保六年)に陽明学をめぐる質疑がくわしく記載され、藩主柳沢保泰によって冬斎が抜擢され「一藩王学に帰嚮す」と評されるに至ったこと、大塩門人で乱当日東町奉行所に宿直中密訴によって真っ先に斬られた小泉淵次郎が、郡山藩の重臣青木氏の出身であることから、今回子孫の青木文親・保司氏の協力を得て、菩提寺宗延寺の青木家墓右の一つ、「真教院殿妙理日示大姉」碑の右側面に、「天保八丁酉歳二月十九日 唯光院智得日観居士」と密かに刻銘されているのが、淵次郎の戒名であるとして、同寺の三種類の過去帳と照合して確認されたことなどを説明した。あわせて同じく門人瀬田済之助の若党植松周次(郡山藩士の倅)や乱直後の郡山藩の鎮圧態勢・関係者の処罰についても触れた。

 青木家は、郡山藩柳沢家初代藩主吉里の子で、二代藩主信鴻(文人として有名)の弟・青木大弥太信周に始まる家筋で、小泉淵次郎はこの大弥太の孫にあたり、青木家では弥之助と伝えている。文政三年生まれで、天保三年天満在の東町奉行所与力の小泉 家を嗣いだ。淵次郎の戒名の刻まれた墓碑の正面には「院殿」「大姉」とあり、かなりの身分の女性とみられる。まだ未確認のところもあるが、当面淵次郎の兄、青木弥之助周雄の妻と推定した。

 講演会のあと、長田氏の案内で町を歩いた。城内の柳沢文庫では佐竹喜久雄氏の説明を受け、安政期の城下絵図、分限帳およぴ頼山陽の朱筆のある藤川冬斎詩文集を閲覧し、町方に入った。宗延寺で青木家の墓碑を拝し、洞泉寺町の旧遊郭の木造三階建ての見事な建築を見、洞泉寺境内で夕刻解散した。この例会には青木家ならびに、藤川冬斎の墓碑のある常光寺関係者がとくに参加された。

 例会に先立って淵次郎の墓碑について『毎日新聞』(次項参照)に報道され、『奈良民報』十二月二日号の「飛火野」欄、雑誌『部落』〇二年一月号所収の島田耕氏「よみがえる墓碑銘」が催しを伝えた。

〈当日の参加者〉略
72 計五五名

◇平八郎門人大和に眼る(『毎日新聞』)

 〇一年二月一四日付夕刊に次の記事が掲載された。

  (略)

◇茨田郡士(門真)を訪ねる

 〇二年二月三日、門真市立歴史資料館で標記例会を開いた。同館では一月二五日から六月三〇日まで特別企画展「豪農茨田郡士が駈ける大塩平八郎の乱」が開催中で、本会副会長の向江強氏が展示を監修した。この特別展を見学し、茨田家ゆかりの地を歩いた。門真三番村の茨田郡士(郡士、郡司)関係の文書は、曾孫に当たる茨田ひろの時代まで大切に伝来され、その没後門真市に帰属することになったが、同家の経営、大塩との交流など一級の記録で、今回鎧、刀などとともに主立った資料が展示され、きわめて充実した内容であった。この企画を担当した常松隆嗣氏(関西大学非常勤講師、門真市史嘱託)が興味深い列品解説を行い、参加者は身近に茨田家と大塩を学ぶことができた。

 ついで、門真一番下村出身の幣原喜重郎展の開かれていた会場で、本会会長の酒井一氏が「門真三番村と大塩の乱」と題して講演した。門真地域は湿田の多い米作地帯であることを指摘したあと、長年調査した門真三番村の庄屋野口五郎兵衛文書(現在は関西学院大学所蔵)を使って、同村の岡田利吉郎(利右衛門)が般若寺村庄屋橋本忠兵衛の弟で、文政十二年に高一一〇石余を持つ豪農であったが、枚方泥町の湯屋で遊女と立てこもり、大塩平八郎が担当与力として処理した一件があり、これをめぐって忠兵衛から五郎兵衛に宛てた書状のコピーを示した。大枝村の九兵衛など大塩周辺の人物をめぐる問題にも触れ、あわせて天保飢饉の窮状一般論だけでなく、助郷、肥類、年貢納入形態など当時北河内の村々が抱える負担と闘いを視野に入れて、乱を見ることの必要を説いた。

 このあと、常松氏のガイドで、旧茨田邸跡の茨田公園、菩提寺黄梅禅寺をめぐり、小路霊園にある茨田家の墓碑に展墓して散会した。

〈当日の参加者〉 略
計三七名

◇会員の計報

 謹んでお悔やみを申し上げ、生前の本会へのご協力に感謝いたします。

堀井源一郎さん 播州加東郡河合西村(兵庫県小野市)の門人堀井儀三郎の子孫で、七九年四月入会。九六年四月三〇日逝去、七〇歳。洗心洞に学んだ門人のうち判明する限りでは最も西から来た青年で、明治十年代に建てられた顕彰碑が青野ケ原の高台にあって同家と村を見守っている。堀井本家の文書は故島野三千穂氏が収集し、現在大阪城天守閣に寄託中。

久保新一さん 創立以来の会員で、天満・中之島界隈の大塩ゆかりの地を歩き、その写真多数を提供された。九七年三月逝去。

西村享(すすむ)さん 枚方市津田の人、早稲田大学卒業で森繁久弥氏と同級という。牧村史陽氏主宰の佳陽会の熱心な会員だった。大阪市役所に勤務、大塩の乱や戊辰戦争に関心を持ち、枚方の中宮婦人学級に唯一人男性として参加を認められた人格者。九七年五月六日逝去、八五歳。

広瀬嘉一さん 寝屋川市の人で、大塩関係資料を読む会に早い時期から参加し、九四年に本会に入会九七年一二月逝去、六九歳。

今田洋三さん 『江戸の本屋さん』(NHKブックス)など好評の近世出版・文化史の業績を挙げておられたが、近畿大学教授として来阪以後、八三年に本会加入、大阪出版史の研究を手がけ、論考を発表されていた。江坂二都を対比する大きな成果が期待されたが、九七年に逝去。山形県出身で、父が名著『最上紅花史の研究』の今田信一氏である。

大島正信さん 枚方市在住の創立以来の会員。父は天満壺屋町の生まれ、大塩の子孫という伝承があり、叔父の戒名が洗心洞公素直斎居士。二〇〇〇年二月の「大塩平八郎と天満」を語る会で家の伝承と所蔵の二振りの刀のことを話されたのが、会に出席された最後であった。二〇〇〇年一〇月二八日逝去。

野田昌秀さん 枚方の尊延寺深尾家ゆかりの人で、枚方市教育長などを歴任。才次郎の潜んだ石川県富来町福浦港へも調査に出かけ、紀行文をまとめた。生前本会会員の拡大に努められ、当時副会長西尾治郎平氏の一会員一人拡大の訴えを受けて早速枚 方市で奔走された。教育長時代尊延寺関係の史料を提示された。〇一年九月一〇日逝去。

三宅一真さん 今橋の大阪美術倶楽部の改築に伴って 旧鴻池家の表屋門が解体されることになり、大阪市をはじめ引き取り手がないとき、文化財としての意義を痛感し私財を投じて二年がかりで奈良市富雄に移築した。大塩焼けのあと再建されたものだが、さすが天下の豪商の表屋門(門長屋)だけあって見事なもので立派に個人の力で保存された。淡路出身の立志伝中の人で、郷里を出るとき蔵のある家を建てよという母の教えを守ってこの移築を実現された。商家の道具類や慶応四年正月の大阪落城の際 持ち出されたと思われる城備品の箪笥などがある。鶴橋の三宅製粉の経営者。会として鴻池家の面影を伝える大阪美術倶楽部の内部や移築表門の見学などで格別のお世話になった。〇一年九月逝去、九一歳。

◇『曽祖父大塩平八郎』発刊

 会員の小西利子さんが、二〇〇一年三月二六日発刊された。内容は、第一章誕生・阿波から大坂へ、第二章青年から活動期へ、第三章平八郎の友人群像、第四章乱前後、第五章平八郎の所縁の人々、第六章謎の解明、第七章わが父母、そして家系、となって おり、A5版、二五四ページ。送料込み二千円で頒布されます。連絡先(略)

◇山口県徳山市の大塩関係資料

 会員の西山清雄氏から、宝塚市の古文書を読む会編『源右衛門蔵』に、橋本峻吉氏が「徳山でも記録された「大塩平八郎の乱」と題して、同市の商家浅海家に伝わる文書が紹介されている旨、お知らせいただいた。(日記永代録 家祖伝抜書略」の一節 である。

 その読み下し文(大国正美先生による)を転記します。

◇天理教飾大分教会長の交替

 「大塩平八郎終焉の地」の碑のある天理教飾大分教会(大阪市西区靱本町一丁日一八−一二)の教会長が、〇一年九月二六日に四三年間務められた三代日竹川俊治氏から子息の竹川東一郎氏に引き継がれ、二月一八日に同分教会で盛大に就任奉告祭が営まれた。碑建設の場を提供されその世話をお願いして来たので、平素の御好意に謝するため、奉告祭前日に会として御祝いの挨拶をした。

◇隠岐だより

 島根県立松江北高校教論日野雅之氏が出身地の雑誌『隠岐の文化財』第一八号に、「松江藩烈士録・高橋伴蔵を読む−隠岐代官・隠岐の和歌の師として−」と「大塩平八郎甥・官脇静麿の銭箱」を発表した。前者は、出雲松江藩士で隠岐代官を務めた高橋伴蔵の履歴を紹介したもので、慶応四年(明治元)の隠岐騒動の正義党の一人、隠岐郡那久村の安部廉一らの師にあたる。後者は同郡西郷町下西に在住の安部凡訓氏が故郷の那久の蔵から発見した銭籍の記事である。この銭箱は、もと周吉郡日貫村の扇屋国蔵から「大塩平八郎親戚ナル辰吉」が同村の大計屋(おけや、島後周吉郡の大庄屋)の手代となった時期に譲り受け、さらに津戸村笹屋タカエを経て同女の形見として安部玄太(安部廉一の甥)に譲られたものである、その伝来を物語る墨書が銭箱の裏蓋に玄太の手で明治二十七年旧十月二十八日付で記されており、そのカラー写真が掲げられている。「辰吉」は摂津国吹田村西宮神主(いまは吹田市泉殿宮)で大塩平八郎の叔父にあたる宮脇志摩の子、辰三郎(のち志津摩と称す)のことで、十五歳になった嘉永四年六月に隠岐へ流刑された(井形正寿氏提供)。

◇史料館所蔵史料目録

 国文学研究資科館史科館所蔵の三井文庫旧蔵資料〈袋綴本〉目録が、史料目録第七四集として〇一年九月史料館から発刊された。ここには、「大塩平八郎一件評定所一 書留1〜5(国立史料館叢書の『大塩平八郎一件書留』、東大出版会、一九八七年に翻 刻)」のほか、大塩平八郎関係として、難波汐干潟1〜10、浪花秘事 芦の塩釜、蘆葭叢談、天保奇談上・中・下の三三冊の内容が掲載されている。B5判、四三四ページ、取扱・名著出版(電話〇三・三八一五・一二七〇)(森安彦氏提供)。

◇藤堂光訓と『箚記』

 伊勢津藩の藤堂数馬光訓(一八〇九〜五一、禄高三千石)が、大塩と交流のあった同藩の平松楽斎に宛てた月不詳十六日付書簡に、つぎの一節がある。(平松楽斎文書20『藤堂光訓書簡』津市教育委員会、一九九七年)。

 中斎が楽斎に贈った家塾蔵板が、藤堂光訓(多羅尾氏)に渡り、その内容に共鳴していることがわかる。年代は天保四年だろう。

◇渡辺崋山の京都救小屋図は虚説

 長谷川伸三氏の「虚説『渡辺崋山が天保八年に京都で救小屋を造った』−日本近世史に罷り通る非実証−」(茨城大学人文学部史学専攻会『史風』九六年四月、のち『近世後期の社会と民衆』)雄山閣、一九九九年再録)が、国立国会図書館蔵の有名な「荒 歳流民救恤図」を崋山作とするのは虚説であると明快に論証している。この点については森銑三氏が一九三七年に疑問を提起していたが、近世史関係の文献によく崋山の名で引用されてきた。中瀬寿一氏も八三年に『季刊科学と思想』第四七号で、小沢軍嶽(横山崋山の弟子)の作とした。崋嶽の名が「定静」で渡辺崋山の名も同じく「定静」、ここらあたりから混同が生じたらしく、長谷川氏が古橋懐古館(愛知県北設楽郡稲武町)の石版刷りで確認したところでは、前橋市の福鎌芳隆が一八九九年に石版印刷で発行し、作者を渡辺崋山に仮託したとみる。石版には「田原渡辺登源定静並記」とあり、ご丁寧にも「全楽堂記」の黒印まで押してあるという。京都町触をみると、天保八年正月に三条河原で救小屋が設けられているが、当時崋山は京都にはいなかった。

 森氏の論証によると(『森銑三著作集』第一一巻、中央公論社)、崋山は天保八年五月に江戸の彦根藩中老の岡本黄石を訪ね、自筆の画を贈り、それが現存しているという。この岡本黄石は、大塩門人で決起の朝大塩の命で倒された宇津木静区の弟にあたる。仲田正之編『大塩平八郎建議書』(文献出版、九〇年)には、江川坦庵の「甲州微行図」(大塩の探索)に付して明治十八年(一八八五)七五歳の黄石が賛を寄せたことが載せられている。

◇大塩挙兵の真相に迫る  NHK番組『役人の不正許すまじ、大塩平八郎決起の時』放映される

 〇二年一月二三日、NHKの番組〃その時歴史は動いた〃で『役人の不正許すまじ、大塩平八郎決起の時』が放映された。番組では正義の人大塩平八郎が、民間金融の仕組みを悪用した〃不正無尽〃に幕府の要人までが関わっていることを探索し、告発したが、上層部によつて握り潰された経過などを追い、大塩の無念を描く。〃不正無尽〃のからくりなども図面で示され、分かりやすくしていた。解説には大阪歴史博物館副館長の相蘇一弘氏が出演し、「檄文」も展示され、大塩の決起の真相に迫る的確な解説で好評であった。

◇「漢時人岡本黄石の生涯」展

 〇一年一一月一日〜三〇日まで、東京都世田谷区立郷土資料館で標記の展示があり、同題名の図録が発刊された。展示は館蔵品と黄石の子孫にあたる岡本夏樹所蔵文書を中心にしたもので、図録は実に充実した内容である。同館学芸員武田庸二郎「解説『岡本黄石の生涯』」、特別寄稿の早稲田大学名誉教授村山吉廣「岡本黄石の詩業」、世田谷区誌研究会理事倉島幸雄「岡本黄石と大塩の乱に難死の兄静区」があり、ついで黄石とその知人たちのカラーの書画が適切な釈文と解説で示されている。破格の価格で入手できる。

 同館訪問時にはこの展示は終わっていたが、武田氏から岡本家文書などについて懇切な説明を受け、ここから一キロ余離れた彦根藩井伊家著提寺豪徳寺への案内を受け、黄石夫妻の墓、井伊直弼の墓などに詣でた(図録六〇〇円、送料別。電話〇三・三四 二九・四二三七)。

◇二人の門人

 大塩の主要門人は、彼の著作や乱との関係で知られることが多いが、ここに少年期に学んだ二人を紹介しておく。

 一人は秋田晴吉。仙台伊達家の家臣岡鹿門(名千仭)の「在臆話記」文久元年(一八六一)十月の項に次のような記事がある。

 岡鹿門は、江戸昌平黌で重野成斎(安繹)、松本奎堂と同学。重野は抹殺博士として有名で、大阪・城南寺町の龍淵寺にある秋篠昭足の墓碑に、大塩清国逃亡説を刻んだ娘婿の奥並継と史料編修宮としてのつながりがある。奎堂は文久三年に大和五條を襲った天誅組総裁。

 この引用に触れると、鹿門は西摂(神戸市)を西行して御影で少年期大塩に学んだという晴吉に会っている。岡本の宝積寺は黄檗宗で良完は仙台大年寺の僧、ここは河内弓削の豪農西村利三郎が乱後黄檗の寺々を辿りながら身寄りの住持投伍を頼って逃亡し拒否されたところ。岡本は梅の名所、加納とあるのは菊正宗酒造につながる治郎作のことで、柔道で有名な治五郎の父にあたる。

 もう一人は阪谷郎蘆。緯は素、希八郎と称した。備中の人、文政年間父に従って大坂に寓し、奥野小山に句読を学んだが、遅鈍として拒否され、のち大塩に学んだ。門人の多くがかれを愚弄したけれども、「中斎独り之を奇として曰、異日必ず大名を成さん」 と。幕未維新に功あり、明治十年 *1 一月六十歳で没した。その子は男爵阪谷芳郎。東京谷中霊園にこのことを刻んだ長大な墓碑がある。

◇寄付の御礼

   (略)


管理人註
*1 阪谷郎蘆 1822〜1881(文政5〜明治14)


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