有働 賢造 (1907〜1945)
『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収
二月十九日朝天満一角の炮煙によつて乱はその火蓋を切つた。この日は挙兵予定の期日ではあつたが、これよりさき義盟同志中に若干の裏切者を出し、計画の発覚は直ちに平八郎に報ぜられたため、尚同志の未参者があつたにも拘はらず、事は急に発せられたのである。この日未明大塩邸前に軍を整へた一味の人々は、総勢軍夫人足を集めて数十人、着込野袴、後鉢巻の武装に浅黄真田の襷を掛けて一党の合印となし、槍・太刀・鉄砲・大砲・行李・鐘等の武器を携ヘ、先づ火を大塩邸に放ち、東照宮建国寺を砲撃してこれを炎上せしめ、天満橋筋を北に長柄方面に向ひ、十丁目より左折してゆくゆく町人百姓等の軍に加はる者を集めてその数三百人位となり、天満天神社より南に折れて天神橋に出たが、橋は既に幕軍によつてその南端が破壊されていたから西に折れて難波橋に向つた。この時に至つても未だ幕軍の進み妨ぐる者もなく、同橋を破壊せんとしてゐた人夫を追ひ、易々として大塩軍は目指す北船場に進んだのであつた。先手に大塩格之助、中陣は平八郎自らこれを指揮し、後手は瀬田済之助これを率ゐ、陣を三段に構えて、一番には救民の旗、二番には五三の桐の旗。三番には天照皇太神の旗を翻しつつ北船場に入つた大塩軍は、北浜二丁目に出で、今橋通・高麗橋通に群居する鴻池屋善右衛門・鴻池屋庄兵衛等鴻池の一統、天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛、三井八郎右衛門・岩城・升屋等の富豪を攻撃し、その蔵する金銀を撒布し、これより分れて二隊となり、一隊は平八郎指揮して高麗橋を渡り、一隊は格之助これを率ゐて今橋を渡り、共に島町・骨屋町に出たが、尚幕軍をみず、東横掘川の東岸を 南下して二隊再び合し、内平野町の米屋平右衛門宅を焼き、未上刻始めて幕軍との間に戦を交へたのであつた。
幕軍の大塩軍に対する準備は甚だしく活発を欠いてゐた。既に裏切者の密告によつて十七日夜平八郎挙兵の事実を知りながらも、未発に策を施すの計を廻らさず、十九日当日も大塩軍既に動いて火焔の大満一帯に上るを見ても進んでこれを討たんとせず、各方面より動員した武士は大阪城その他要所の警備に宛てたのみで何等積極的攻勢を示さず、斯くして北浜一帯も忽ち火焔に包まるるに至つた。城代(管理人註・西町奉行)堀伊賀守の出陣も事情己むを得ない逡巡の余に出でたのであつて、果して彼は大塩軍の支隊と遭ひ砲撃を受くるや忽ちに落馬し、從者四散するの物笑ひを止めたのである。
若し又一城をも構へし者の叛逆を企てまじき者にも非ず、若しや左様の事にてもこれ有るに当らば、如何して是を討取らんと思へるにや、諸司の臆病未練なるは、皆これ天下の御威光に係りぬる程の事にて、少しく心有つては恐入るべき事に非ずや。始め大塩が川崎を乱妨せる時、其近辺へは一入も寄附く者なく、遥に道を隔てゝ此方にては、天神橋の南手を切落し、跡部城州には城中へ逃隠れ、西御奉行堀伊賀守は御役所の四門を閉し、是に狼狙熟して漸々 と天満一円放火にて焼立て,船場上町へ渡り処々方々放火して焼立つる頃に至りて漸く両御奉行共、出張せらるゝ程の事なりしといふ。浅ましき業といふべし。若し一人にても少しく武夫の心有りて、兵道の端くれにても弁ふる程の者にてもあらば、大塩が己れが家に放火し、其近隣を火矢にて焼立つる頃、僅か二三人にて御神廟の築山に登り、鉄砲にて彼を擇み打にするに、何の難き事かあらん。彼は素より諸司の人々を侮り、白昼に斯かる狼藉に及べる程の事にして、肝心の討手さへえ向はざる程の事なれば、僅か二三人にて出来れる程の勇士あらんとは、夢にも心付かざる事なるべし。又さもなくば、往来に人々を引留め、味方すべしとて槍を与え、車などをも曳かせぬる程の事なれば、之に同意せし様にもてなして、不意に起きて彼を突殺すとも安かるべし。され共是等は忠義にして、其志鉄石の如き勇士のあらざれば能くせざる事なれば、其命を捨てヽ之をなさんと思へる者一人もあらずして、之をなし得る事の能はずと思はヾ、凡そ百計りの人数にて神速に其場所へ馳向ひ、此方よりも矢石を飛ばし、鉾矢備にて無二・無三に打入りなば、一挙に彼を討取るべし。彼は素より死地に有りて少しも要害の備もなく、只鉄砲・石火矢を便りにしてあばれ廻れるのみなれば、之を討取るに何の難き事あらんや。少しも恐るべき敵に非ず。殊に其日は西南の風烈しく吹きて、己れが放てる火に身を焦し、烟に噎び巻かれぬる程の事なるべし。味方は素より地の利を得、南には日本無雙の堅城を控へ、前には淀川の固めありて風火又其助をなし、後に少しも心掛りの危ぶみもなくして、一天下は悉く己が味方にて、何の恐れか之あらん。進みて敵に向へばとて、悉く皆殺さるヽ者にはあらず、死せんと思へば生き、生きんと思へば殺さるヽ事、往古よりして其例ありぬる事を思ふべし。只彼を知り己を知りてよく之を計らねば、必勝の顯然たる事は、其戦はざる始に明瞭たる事なり。何をか恐れ何をか危ぶみ思へる事のあらんや。然るに只狼狽へ廻れるのみにして、聊の思慮分別もあらずして、斯かる天下の御恥辱を引出せし者は、何れも只死を恐れ命を惜しみ、恥を知らざるが故なり。浅ましき業と云ふべし。若し又敵を十分に危ぶみ、人数の程も見積る事もなり難きことヽ思はヾ、西の方四軒町の入口より、人数を鉾火備になして馳向ひ、南は神廟を固めて少しも動く事なく、只其粧を見せて鬨の声を揚げ、西備より一二町も隔てヽ、北の方へ一手の勢を備へて繰り掛りの形をなし、又は一向二裏などの変化の有様をなして、後を切取るやうなる形をなして敵を少しく繰くらば、主将大塩平八郎を打捨てヽ、首縊の士大将瀬田済之助を始め、一騎当千と頼み切つたる庄司・渡辺・近藤の類は、施行貰ひに出来りて首を切らるヽことの恐ろしさに、拠なく附随ひぬる百姓等と共に、その後を取切られざる先にと、北の方へ大崩れになりて逃行くべし、処々に些かなる兵を伏置きなば、一人も漏さず之を生捕となすべし。併し斯く十分に乱妨狼藉をなさしめて之を捨置きしは、「其鋭気を避けて其労るヽを討つ」といへる本文によりしものなり抔と、へらず口聞きぬる先生達も有るべけれ共、大塩を始めとして其徒を残らず取逃せし上は、少しも其道理にも当り難きことなり、武人此度何れも大狼狽へにうろたへ、大なる不覚を取りたりし事を恥ぢ思ひ、治に居て乱の忘れ難き事を知り弁へて、武士の武士たる所行に勤め基きて、これ迄の如くなる平日の奢を省き、よく倹約をなして、何れも武器一つ宛をも持貯ふるやうになりなば、たとえ此後不時の変起る事あり共、浅ましく見苦しく大狼狽へにうろたへて、児女の嘲を受くる程の事には至るまじき事なり。*15
幕軍の漸く出動するのを見た平八郎は、令して軍を進め、平野橋の東に進んだ時、跡部良弼の率ゐる幕軍と衝突、両者の間には少時の戦闘が交へられた。この戦に於て幕軍は、玉造口与力坂本鉉之助の率いる一隊の突撃によつて有利に戦を進め、而も幕軍は新手の勢を加ふるにひきかへ、烏合且つ劣勢の大塩軍は、戦闘の間に同志の幾人かを失ひ、遂に敗退四散の止むなきに至つた。
大塩の乱は僅か一日にして大塩軍の敗退に終つた。その理由が何であつたかはいはずして明らかである。幕府の権力は尚牢固たる勢力を持してをり、一部激徒の攻撃によつて潰へさるべき弱勢ではなかつたのである。而も大塩軍の内容は、その中に少数の同志的結束は見られても、その余に至つては全く雑然たる烏合の衆に過ぎなかつた。天満に火勢起ると見て馳せつけた農民の間にも挙兵の意義がどこまで理解されてゐたかは疑はしい。桜井一太郎の見聞を記した「大塩騒動記」 *16 に、伏見町道具屋某が乱の当日会々大塩宅へ赴き、平八郎に勧められそのまま乱に加はり、弓矢を持つて軍に従つたが、難波橋を南え渡つた頃曲り角にて弓矢を打捨て、宙を飛んで帰宅したことを書いてゐるが、斯かる例は多にも多く存したのであつた。*17 これによつても大塩軍の内容が如何なるものであつたかを知ることができよう。若し幕軍にして迅速な処置を講じ、大阪四方の要所を直ちに固めて党与の検挙に当つたならば、騒擾はより急速に解決を見たであらう。『此節速に手を廻し、四方の出口々々へ〆りを付候へば、過半召捕り可申処、今更恥入候 *18』と「浪華騒擾記事」も記している。然るにここにも幕軍の施すところがなかつたため、大塩軍の領袖は悉く遁走し、浮説頻りに起り、ために四方の警戒厳重を極め、これが検挙による終極的解決には非常な苦心が払はれねばならなかつた。騒擾によつて大阪市中は一様に騒ぎたて、婦人・足弱・老人等近きは今宮・天王寺へ、遠きは堺・平野・河内・大和等の地に難を避くるもあり、堺等でも家毎に諸道具を取片付け逃支度をなしたといふ。党与の四散が浮説の因をなしたこと怪しむに足りないが、安治川・九條・富島・江ノ子島・幸町など、すべて海辺近きところでは、誰いふとなく、大塩軍船にて大勢攻来り焼討をなすと風説し、風の音を聞いてさへ肝を消し、毎日毎夜少しもまどろむことなく、大いに狼狽へ騒いだと伝へ、阿波国では、大塩の徒船にて彼地に渡り深山に隠ると風説し、大勢にてその山を囲み、鉄砲を打立て国中大騒動をなしたともいひ、党与未検挙の波紋は果しなく続いて行くのであつた。大阪城の警備はその中に於ても最も厳重に、大阪城代の乞によつて来援した尼崎・高槻・岸和田・郡山・淀諸藩の兵は、夫々部署して警戒に当り、十九日・二十日の両夜は各門篝火を焚いて変に備へ、二十一日に至つて漸く兵を解いたのであつた。
この乱によつて大阪市中豪商の多くが襲撃の厄に遭ひ、天満・船場・上町一帯に亘る広汎な地域が兵火に焼かれ、ために市民の苦痛を招いたのは誠に遺憾なことであつた。世に「大塩焼」と称し、大阪三大火の一とされている。即ち火は十九日早朝大塩家より発し、東天満一円を焼亡し、北は長柄に及び、転じて船場に移り、北は大川筋より南は備後町まで、西は中橋筋を限り、東は東横堀を越て上町に向ひ、南は本町筋まで、北は八軒家、東は谷町迄延焼し、現在の東区の大部分を焼いて二十一日夜漸く鎮まつたといふ。竈数一万三千二百四十七軒、明家千三百六軒、土蔵四百十一箇所、穴蔵百三箇所、納屋三百三十軒、神社三箇所、寺院三十六箇所、神主屋敷十軒、蔵屋敷五軒、御代官一軒、天満御屋敷百四拾二軒、上町御屋敷四軒、以上が記録の示す災害の詳細である。尚富商の火災に罹つたものには、鴻池屋善右衞門・同善五郎・同庄兵衞・同篤兵衞・天王寺屋五兵衞・平野屋五兵衞・米屋平右衞門・同嘉兵衞・同長兵衞・同伊太郎・茨木屋安右衞門・嶋田八郎衞門・山本三次郎・鉄屋庄右衞門・【糸九/十】屋善右衞門・長浜屋佐之助・川崎屋三右衞門・三井呉服店・岩城呉服店・蛭子屋呉服店等があり、鴻池屋善右衞門の如きは大方丸焼けとなり、土蔵三四箇所も焼落ち、暴徒乱入して金銀沢山に奪取るといふ有様であり、火災を免れたものも打毀しに遭ふの状態であつて、その実害は蓋し想像以上のものがあつたと考へられる。