Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.23

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その13

 








 
前に大助・藤蔵・四郎右衛門等が最後の事を記せしが虚説なりし。猿之助がいふを聞くに、四日三人共に上月村のはづれ野中の道にて、何れも鉄炮にて打殺さる。

同人が死骸を改めに行きしは八日のことなりしが、長き箱に入れて、石灰詰にして仮覆ひして有し〔を脱カ掘出し、石灰を洗ひ落して之を見せられしに、大助は咽を打抜かれ、今井は胸先を打抜かれ、佐藤は腹を打抜かれて有りしとなり。此者共此処へ出来るを待伏して、猟師獵人共打殺せしといふ。夫より三人の死骸大坂へ引取になるといへり。

大助が家筋は頼国の末孫にて、世に多田院の家来なり。猿之助にて二十五代相続すといふ 事なり。親源六も此度の一件に付、村預けに仰付けられしとなり。

福島の葭屋・願教寺堀の釜屋等にて、悪事をなせし大助同腹の弟藤兵衛といへる者、其後富田にて母娘両人有りて、按摩をなして世渡りせる者の方へ養子となる。是も相変らず悪事をなすといふ。

昨年大助半身不随にて病臥して一ケ年計りも引籠りしにぞ、之が手代りに出来り暫く滞留せし内、加島屋久右衛門へ出入する処の兄が家督を奪取りて、己が物とせんと工みぬる由。又兄が衣服等をも密に盗出して、之を質に置き、又は売払などせしといふ。

源六より大助へ来れる書状、只の一度も宜しき事を申越せる事なく、悉く難渋なる事のみなれども、其書状来れる毎に之を頂かざれは開封する事なく、封切りて其状をみ終りぬれば、之を紙袋に納め父の書なりとて、己れは勿論妻子等にも之を反古に遣はしめず。

此の如くなる故、大なる袋に六七も溜り有りしを、昨年源六夫婦連にて出来り、長々滞留のうち、母親之を髪結反古に遣ひ捨て、紙袋に昨已来の書状二袋計り有りしを、此度の一件に付、附立の節公儀へ御取上になりしかば、此度の始末も委しく分るべき様に思はれぬと、妻が咄なりし。彼がいへる所にては、親計り悪しきやうに聞取られぬれ共、不良の心なき者のいかでか悪事に組する事のあらんや。

され共父の無理なる事のみを申越しぬる書状を戴きて開封し、之を大切になして除置くに至りては、少しく人倫の道を弁へぬるに似たり。何分にも貧困せる処よりして、生質(うまれつき)の慾心を生ぜし者ならんか。何にもせよ一命を捨て、事を起せる程の気象ある者とは思はれぬ事なり。いかなる事にや知り難し。

 




大坂よりの先手には、平山源三郎・人見八次郎・島田亀五郎・松浦一太郎。二番手与力桑原信五郎・吉見勇三郎・久米孫三郎与力吉田覚之丞・関弥次右衛門・寺田義四郎











天保八酉六月朔日、勢州桑名松平越中守殿領分越後苅羽郡柏崎八万三千石、御陣屋ヘ、朔日の夜八つ時分表門へ火をかけ鉄炮打込み、烟の内より十人計り身には甲頭巾・小具足著し、槍・長刀・小筒等所持致し、荒浜宿の者二三十計引連れ、無二無三に切入申候。其輩には、

鷲尾甚功 是は無念流の名人にて、其名隠れなく、猛勇の者にて、越後にては摩利支天の甚助と異名取る者なり。元は会津の浪人、今は剣術の師なり。行方不知。

小関六郎 是は越後三條在小関村の者にて、鷲尾に増る一刀流の名人にて、其名国中に隠れなく、元は西国の浪人者に御座候。松岡彦之進に被討留申候。

生田よろづ 是は米沢の浪人にて剣術の上手、其上強弓の名人にて、八分迄は引く人也。今は柏崎に住居致し、和学者致し居申候。乱軍の内に死す。

其外六七人の浪人は、何国の者に候哉不相分右の内三人は海辺にて 打留候。御陣屋方には、浅手七ケ処 岩崎台助(浅手二ケ所 深手一ケ所)養生不相叶 松岡彦之進浅手 松岡勝四郎(浅手にて死生不相知) 島橋助八郎・加藤才助・小林金之丞・同鉄蔵・即死 一村亦八・伊原治兵衛・藤岡鉄蔵 右の通珍事に候。尤夜明方に相鎮る。

 
     


「摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記」 その12
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