前に大助・藤蔵・四郎右衛門等が最後の事を記せしが虚説なりし。猿之助がいふを聞くに、四日三人共に上月村のはづれ野中の道にて、何れも鉄炮にて打殺さる。
同人が死骸を改めに行きしは八日のことなりしが、長き箱に入れて、石灰詰にして仮覆ひして有し〔を脱カ〕掘出し、石灰を洗ひ落して之を見せられしに、大助は咽を打抜かれ、今井は胸先を打抜かれ、佐藤は腹を打抜かれて有りしとなり。此者共此処へ出来るを待伏して、猟師獵人共打殺せしといふ。夫より三人の死骸大坂へ引取になるといへり。
大助が家筋は頼国の末孫にて、世に多田院の家来なり。猿之助にて二十五代相続すといふ
事なり。親源六も此度の一件に付、村預けに仰付けられしとなり。
福島の葭屋・願教寺堀の釜屋等にて、悪事をなせし大助同腹の弟藤兵衛といへる者、其後富田にて母娘両人有りて、按摩をなして世渡りせる者の方へ養子となる。是も相変らず悪事をなすといふ。
昨年大助半身不随にて病臥して一ケ年計りも引籠りしにぞ、之が手代りに出来り暫く滞留せし内、加島屋久右衛門へ出入する処の兄が家督を奪取りて、己が物とせんと工みぬる由。又兄が衣服等をも密に盗出して、之を質に置き、又は売払などせしといふ。
又源六より大助へ来れる書状、只の一度も宜しき事を申越せる事なく、悉く難渋なる事のみなれども、其書状来れる毎に之を頂かざれは開封する事なく、封切りて其状をみ終りぬれば、之を紙袋に納め父の書なりとて、己れは勿論妻子等にも之を反古に遣はしめず。
此の如くなる故、大なる袋に六七も溜り有りしを、昨年源六夫婦連にて出来り、長々滞留のうち、母親之を髪結反古に遣ひ捨て、紙袋に昨已来の書状二袋計り有りしを、此度の一件に付、附立の節公儀へ御取上になりしかば、此度の始末も委しく分るべき様に思はれぬと、妻が咄なりし。彼がいへる所にては、親計り悪しきやうに聞取られぬれ共、不良の心なき者のいかでか悪事に組する事のあらんや。
され共父の無理なる事のみを申越しぬる書状を戴きて開封し、之を大切になして除置くに至りては、少しく人倫の道を弁へぬるに似たり。何分にも貧困せる処よりして、生質(うまれつき)の慾心を生ぜし者ならんか。何にもせよ一命を捨て、事を起せる程の気象ある者とは思はれぬ事なり。いかなる事にや知り難し。
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