Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.16

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その12

 








 
 山田屋大助が妻并に伜猿之助より直に咄せる処左の通

根来源六は、前にもいへる如く不良の者にして、種々悪しき事有りて、現在肉骨の姉に絶交せらるゝ程の人物なり。此姉根来の家に生れて葭屋の家に嫁し、弟ながらも源六は父の跡を継げる者なれば、此女の身に取りては、麁末に思ふべき者には非す。

然るを義絶せしはよく\/の故有る事なるべし。

源六当年七十四才、先年布屋町に住居せる時、四十四五にして十七八の妻を迎ふ。世間は云ふに及ばず近隣の者も皆程能き年頃なれば、何れも大助が嫁なり〔と脱カ思ひしに、案外の事なりし。同人事は至つて房欲甚しく、斯かる年若き妻を迎へ乍ら、召遣ふ処〔の脱カ下婢・乳母の類、一人として之を犯さずといふ事なく、日々飲食の敖り又其度に過ぐる事甚しく、是等の費少なからざる事なれば、加島屋久右衛門より間毎に貰ひぬる五六百目の給銀にては足り難き事故、常に不良の山を工みなす事と思はれぬ。

十四五年計り已前より加島屋の家督は忰大助に譲り、己れは能勢へ引籠り、後妻の腹に生れし娘に養子をなして家を相続す。又同腹の男子あり。これは末子の事にて幼弱なるゆへ、姉に養子せしといふ。此男子といへるは大坂に出でて堀江辺に奉公すといふ事なり。

 
 





源六在所へ引取りて後は、大助よりして日々魚肉を贈りしが、暑に至りては味損じ腐れる故、源六方より、「魚肉を贈る事を止めて料物すべし。此方にて勝手に求めん」といへるにぞ、近年金子にて毎間に贈れるやうになる此肴代も、「金子入用なれは当年の分を一所に受取らん」といへるにぞ、其意に任せぬれば又間もなきに、来年の分も受取らんとて之を貪取り、又其上にも何時となく金子入用の由申来りぬるにぞ、大助も困窮し之を断れば、「公儀へ不孝を申立て勘当すべし」などいひぬる故、無理なる積りをなして金子を拵へぬる事故、自ら貧困に及びぬるやうになりしといふ。

 
 








 
 









源六が後妻といへるは、至つて不人柄の者にして、只さへ悪しき源六をけしかけて頻に大助を困らしむ。この者が腹に生れし娘に嫁せしめし聟の名を源二郎といふ。此者源六が家の相続人なり。

この者も至つて放蕩を尽し聊か有る所の田地をも質に置き、又は他借等をも格外に致し、身の立所なしとて、借金方の者を引連れて出来り、兄大助が家ヘヘたり込み、過分の銀子を無心云ひ、後には所の庄屋と馴合ひ、庄屋同伴にて出来り、二三日も尻を居ゑて居催促をなし、大に大助を困らせて金の工面をなさしめし事あり。

之に限らず斯様の類まゝ有る事にて、弟の事なれば叱り付けて之を取合ざれば、忽ち母の機嫌を損じ、親源六へ悪様に申含めて、大いに大助を苦しましめて、己れも至つて惨く当りぬるといふ事なり。

後には大助を追退けて加島屋の家督を源治郎が有とせんと、源六に勧め込みて工みぬる事など有りしといふ。此度大助が能勢へ到りしも、親源六至つて大病の由申越しぬる故、取る物も取敢ず明る日早朝に立ちて、彼地へ到りしといふ。

 
 















今井は京都其外近国処々に用事有りて出で行くにぞ、「幸の能き道連なれば、能勢の妙見へ参籠すべし」とて同伴し、佐藤四郎左衛門 研屋也 は、是も故郷鳥取へ用事有りて行きぬる故、道すがら商ひをなしながらに行かんと思ひ立ちぬる故、幸のよき連れなれば之も同伴して、妙見へ参るべしとて、一所に出で行きしといふ事なり。 今井大助と兄弟分なれども、佐藤は左程深き交りせる者に非ず。 家を出づる迄も何の様子もなき事なりし故、能勢へ到りて後、俄に思付きしものならん。下地より其催し有りぬる程の事ならば、少しにても我が心付かざる事は、有るまじき事なるに、露計りも其気色はあらざりしと、妻が咄なれ共、一大事を思ひ立つ程の者にして、うか\/妻に悟られぬるやうの事も有るまじく、只慾心を起し密に金儲せんと思ひぬる時は、尚一命を失はんとは己が心に存寄らざる事なれば、なにしに之をけどらるゝ事あらんや、覚束なき事なり。

    大助が剣術・柔術の師といへるは、前に噂ありし処の能勢の者には非ず。天満曾根崎新地明神より少し南にて、東側に播磨屋忠兵衛と云へる下駄屋有り。此者表名前は右の如くなれども、専らはた (秦カ)四郎兵衛といへる通り名なり。此者与力・同心など随身して、稽古をなす者多しとといふ。大助も此者を師として稽古せしとなり。

 


「摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記」 その11/その13
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