Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.10訂正
2000.11.19

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「浮世の有様 巻六」

◇禁転載◇

大塩の乱 その30

 








二月十九日騒動に付、難波御蔵より御城内へ向け運びし米、其日五百 石、廿日にも亦五百石、夫より日々打続き都合三千石運び入れしといふ。

平日には大切なる御米蔵故、少しく隔りし処はいふに及ばず、七丁 も十丁も隔りし処に失火有つても、御蔵奉行は申すに及ばず、御城代・町奉行并に町火消など早速に馳付けて、御蔵を厳重に固むる事なるに、其外風少しく荒吹ても大切の場処なり迚、直に走来るといふ。

 







 







十九日の乱妨にて大坂はいふに及ばず、近郷・近在処々大騒動に及び、風説には、「市中はいふに及ばず、両奉行所を焼払ひ、難波の御蔵を奪取て之に楯籠れる積なり」など、専らに風聞ありしにぞ、

御蔵奉行にも是を聞し故恐れしにや、又大坂中悉く焦土になすといへる噂に恐怖れしにや、両御奉行ながら御城内へ逃込み、肝心なる蔵へ詰ぬる者一人も之なく、十九日の夜二更過に至りて、蔵奉行の差図なりしとて、組頭三人連ににて出来りしが、僅か一時足らずの間うろ\/して居たりしが、御奉行の御用有る故に、引取らざればなりがたしといひて、立帰らんとする故、御蔵番の内より進出で、「かゝる騒々敷有様なるに、各御引取り有つては相成り難し、何分にも此処の守護せられよ」といひて、強ひて引留めしかども、事を左右に寄せて逃帰りしとなり。

明る廿日には御救米の事に付、是非共に奉行出来らざれば成難き事あるにぞ、拠なく出来りしが、其用事済と其儘取る物も取敢へず立帰らんとて、途中迄踏出しぬるを御蔵番の内より、一人追駈けて之を留め、「かゝる騒々しき折柄なれば、昼夜 〔頭書〕難波御番にての一人といへるは、三浦儀右衛門といふ剣術者なり。 御詰切にて厳重に御固めも之あるべき事にして、何に寄らず銘々共へ御指図も有べき筈なるに、早々御引取に相成候ては、万一何事にてもこれ有る時、小人数にて如何共なし難し、 此蔵中に御蔵番漸々九軒ならではなく、若し変事の有る共此人一人より外には一命を抛うちて働かんとする者なし。何分にも此騒動鎮る迄は御詰なさるべし」と、無理に引留めしにぞ、拠なく一時計り控居りしが、我は御城代の御用有て登城致さずしては成難し。若し悪徒此処へ出来り乱妨するに至らば、其方達もそれ迄の運と思ふべし。御城代にも中々此御蔵などの御頓著にてはなし。故に此処は捨置きて入城致すべしとの御指図なり。故に我はこれより直に入城すべし」とて、早々走帰りしといふ。

是等は己の職分を打捨て候て、其臆病なる事論なし。され共かゝる者城内に逃込ぬるを其儘に膝元に差置き、肝心の糧を積置ける御蔵を守らす事なくして、いかゞせんと思へるにや。御城代を始めとしで、各々其持前の役々あり。然るに是等の臆病者を膝元に引付け置きて其任を失はしむる事、これ誰が罪ならんと思へるにや。御蔵奉行はこれを論ずるに足らず、御城代の所作甚だ心得難き事共なり。

 
 









前にもいへる如く、跡部城州評判取々の事にて、よき噂せる者とては更に之なき程の事なりしに、如何なる事にや、公儀よりして御褒詞有しといふ。其文左の如し。

               跡部山城守

    其方組与力格之助隠居大塩平八郎儀、不容易不届の企致し、放火・乱妨に及び候節、致早速出馬消防并捕方夫々及指図、悪徒共速に散乱相鎮り候次第、彼此心配・骨析候故の儀と、一段之事に候。不取敢此段可申聞との御沙汰に候。右水野越前守殿より御逹し也。〔頭書〕跡部城州御褒詞の後、御時服三重を頂戴し、六月 に至りて六百三十石余ノ御加増ありて、三千石余の所領となられしといふ。

二月十九日大塩が徒、淡路町辺の大家へ火矢を打込み焼きしに、其辺に住める賎しき働人の家へも火移りて、丸焼となりぬ。其日より忽ち飢渇に及び、いかんともなし難き事なれば、夫婦相談し、悪徒を捕へて之を差出さば、定めて御褒美を下さるべし。其金にて家をも借りて商売をなさんとて、其場所へ走行き、悪徒方の雑人一人を打伏せ、散々に之を打擲し、其足を以て、引摺りて御奉行の前へ連行きしにぞ、大に手柄なりとて稱美ありしといふ。此者は勿論嚊の噂をもえらかりしとて、世間にて専ら評判せしといふ。実に此度第一の働きといふべし。

 
     


「大塩の乱」 その29
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