Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.10訂正
2000.11.28

玄関へ「浮世の有様」目次(抄)


「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

米価騰貴と餓死人 その1

     
 








四月中旬よりして別して米価上り、廿四五日の頃には二百四十匁余となりぬ。昨年已来餓死の者至つて多き事なりしが、騒動後より別けて多く往来するに、五人・七人の餓死せし者を見ざる日なし。

道頓堀長町・日本橋・難波新地の辺は、仰山の事にて、日によりては角力場の辺に四五十人斗も一処に集め有りぬるに、其辺の犬之を喰ひ腸の出し有り。

又橋の上にて飢ゑ労れ弱りはてし乞食の著たるつゞれを、外の乞食の達者なるが 之を剥取るあり。昼夜共物貰ひの哀れなる声を致し、泣々門外をあるきぬるなど見るに、目も当てられず、聞くに耳を貫くが如し。昨日迄軒を竝べし隣に住居せし者、今日乞食となれるも数多き事なりといふ。

 
 




其上近来時候不順にて、かゝる年柄なれは疫癘一統に流行て、毎家に大勢病臥せざるはなく、甚だしきは五六日にして死失せぬ。家に在りてさへ此の如き事なれば、御救小家に有りぬる者などは悉く病臥して、日々人死する者多く、二便はたれ流しにて、一向に其辺には寄付き難き程の事にして、目も当て難き有様なりといふ。〔頭書〕御救小屋へ詰めし町人医者迄も其気に感じて、大勢死失せぬ 哀れの事なりし。  
 







又昼夜の別なく、大賊・小盗の為に、物を奪取らるゝ事も限なき事なり といふ。四月中旬の頃、田蓑橋の辺に旅人の行倒れ者有しかば、其町内より訴出で桶に入れ、御定法通りに年齢・衣類・所持の品等を書記し、之を非人に守らせ有しに、

或日夕方に至り婦人一人出来り、「己が夫此間よりふと出でて帰り来らざる故、日々尋ね廻り候。此書付と年頃も衣類もよく符合するゆへ見せられよといへるにぞ、桶の蓋を取りて死人を見せしかば、一目見るより大に愁嘆し、「我が尋ね廻りし夫なり。私事は下京に住居する何某の借家にて、何と申す者なり。此死骸申受たし」といへる故、番人より其由を婦人を連れて其町の会所へ届けしにぞ、「然らば其婦人の家主へ引合せぬる上にて送りやるべし」といへり。婦人之を聞て、「我夫に相違なき事なれば、何卒極内々にて私へ給はり、私背負ひて此事内分に致したく、御覧の如く貧しき身分なるに、時節にて甚だ難渋なる暮しなり。家主・町内等へ御引合下され候ては、何かと費多く相成り迷惑致し候」とて歎きぬる故、其意に任せ、其女に背負せて渡しやりぬ、

其明る日に至り北野辺の畠の中に、丸裸なる死骸と桶と打捨て有しに、其桶の張紙其儘にて有し故、其処よりして行倒れし町へ申来り、案外の事にて大に心配し、表立つては其町内の不念なる故、種々に相断り其事は内分になし貰ひて、死骸の取片付せしといふ。定めて同類有りてせし事なるべけれ共、婦人の身にて行倒れし死人を負ひ、其の衣類を剥取りしなど甚しき業といふべし。

又貧に迫れる者共の中には、妻子を刺殺して自害をなし、夫婦子を抱きて川へ投身して死ぬる者など少なからずといふ。

〔頭書〕四月出雲城下・筑後柳川等に大霰降り、目方四五十匁より大なるは百目に過ぐるといふ。人及び家をも損ぜしといふ。

 


「米価騰貴と餓死人」 その2
「浮世の有様」大塩の乱関係目次

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ