米価騰貴と餓死人 その2 |
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御 城 代 へ 御 老 中 の 御 達 書 |
四月朔日
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物 騒 な る 張 札 |
両御町奉行二月十九日巡見の積りなりしに、大塩が騒動にて其事なかりしにぞ、 漸々と五月七日巡見の積りなりしに、其前々日の事なりしが、堀江問屋橋の北南、其外辰巳屋休兵衛横町・高麗橋・西国橋、其外新難波橋・中橋・戸屋町天満樋上町等へ張紙をなす。 其文言は、「大塩平八郎内談之筋をも不相用、至つて不自由なる米を過分に江戸表へ積下し、夫故当地は米価大に貴く成りて、諸人飢餓の苦しみをなす。此故に難波橋筋より西南先達て焼かざりし処、悉く焦土となすべし。奉行出張せば其儘に差置かじ。夫を恐ろしと思はゞ速に関東へ立退くべし。若此張札引捲り候はゞ、其町を一番に焼払ふべし。何れも城を目指して詰掛くる積りなり、同志の者は今宮の森に会合すべし。又東町奉行堀伊賀守其方(そなた)事」などいへる書出しにて、種々の悪言を書散らして処々へ張附け有りしといふ。 其焼立る定日は七日と書記せしとなり。之に依つて七日の巡見も亦止めに成りて、鳥目五万貫文。大坂三郷貧窮の者共へ下し置かれ候由、即日御触有り。 〔頭書〕大塩が金一朱宛の施行を受けし者、上福島計りにて八百人計りあり。余り大勢の人数なる故、家持共借家の中にて人数何十人有共、其中にて一人宛を召連れ村役人附添にて、五月七日守口へ参るべき由を御代官 より申渡され、借家毎に一人宛の人数なれども、元来大勢の人数なる故、一人宛にても大層なる人数なり。村役人共、此者共を引連れて守口 へ到りしに、「何れも大塩に同意せしや否や」を尋られ、何れも口を揃へ、「我々共は何れも貧窮の者共なれば、施行と承り何心なく申受けぬ。外に仔細なし」と答へて其儘に引取りしといふ。かヽる事にて守口迄引付けられ、大いに村方の雑費掛り、つまらぬ事なりしといへり。 市中大家町人の向は、大に狼狽へ騒ぎ、諸道具を取片付け、中には蔵の目塗迄なして、遠方へ立退きし者も多く有りしといふ。然るに其夜に当りて、順慶町東横堀或家の納家に失火有りしかば、何れも肝を冷せしといふ。公儀よりの御手当も仰山なる事にて、騒々しき事なりし。 此外にも先月より、東奉行所にも度々種々の悪口を書記して張紙せしといふ。 已に当正月にも高麗橋へ張紙せしに、其文言大塩が落し文によく類す。同人が乱妨に依つて、彼が所為ならんと思はる。此度の張紙には三郷裏屋中と書付け有りしといふ事なり。四月下旬堀江にて竹の筒に焔消(硝)を仕込み、石を詰めて、或家の壁を毀ちて、其穴より之を打込みし者有りしが、竹筒裂破(破裂)て其者大に火傷をなし、早々逃退しかども、大勢追駈けて忽ち召捕へしといふ。此者は大塩が乱暴せし時に其人夫となりて、石火矢の車を引きし者なりしとぞ。 七日には大坂不残焦土となさんといへる張札せられて、其日の巡見止めに成りて、早々五万貫の御救ひ出せしも御威光にかゝれる様に思はる。とてもの事にかゝる張紙もなき已前に、此五万貫を下されなば、大に功立ちし事ならんに、之も手後れし様に思はる。 | |||
下 賜 金 分 配 の 不 当 |
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備 後 一 揆 |
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