越後柏崎一揆 |
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越 後 柏 崎 の 一 揆 |
され共鉄炮不鍛練の者共故、一人も之に当りし者はなかりしといふ。此 外の幟は大塩平八門弟と記し有りしといふ。近辺の諸侯より何れも多くの人数を出し、鉄炮にて打竦めしかば、直に平治せしといふ。発頭人は館林の家中、当時浜田の浪人壬生万 *1 といへる和学者なりしが、越中侯の陣屋にて討死す。此者の妻と二才になれる小児と召捕られ入牢せしに、其妻小児を刺殺し、己れも自害せしといふ事なり。 | |
物 騒 な る 世 の 中 |
又大塩平八郎未だ死なず、油掛町にて死たるは身代りの影武者なり。兼ねて内山彦三郎 *2 と心を合せ、諸人の難渋を救はんとて、自分は奉行を諌め、内山は中国・西国筋の諸侯を頼みて、米を漸々買出し来りしに、其米を直に江戸へ下して、当所の奉行を勤ぬる身分にて有りながら、その飢
死するをも構ふ事なし。斯かる奉行は早く江戸へ引取べしなどいひ、
草履に赤紙をつけて東役所へ投込みぬ。これは足本のあかき中に早く帰れといへる事の由。其外門前へも種々の張紙抔せしと云ふ。 内山も之が為にすねて引込みて出勤せず。かゝる事にて江戸は却て米沢山に成りて、相場も大に下落し、其外の国々も至つて安し。当所計りかく米払底に及び、高価に及びぬる事は、全く奉行の業なりと言触らし、二代目の大塩平八郎米価を無上(むじやう)に引上げしを悪み、旗を樹て徘徊し、堂嶋を焼討にすなど専ら言触らせしが、十日頃より米直段日々少々宛下落するに至る。 十二日には二百四十五匁といひし肥後米二百十九匁二百十匁余なりし長門米百九十八匁位となる。其外もこれに准ずといふ。 最早麦も十分に出来ぬ、何れにしても下るべき筈なるに、米仲買共の差札矢張り其儘にて、二百四十匁余の時も同様なる故、左様の者共大勢処々の会所に呼出し、厳しく御咎め有る。然るに同日、処々へ張札せし者両人召捕へらる。一人は坂本町の按摩にて、今一人は新淡路町の者なりといふ。騒々しき事にして、上にも御苦労多き事なりといふ。 新淡路町又阿波殿橋の辺にては、役人会所へ出張し、町内の者共残らず呼出し、書をかヽせて之を吟味し、疑がはしくと思へる者六人を召捕へ、入牢せしめ厳しく責めらるれ共、此者共一向に覚えなき事故、少しも屈する事なしといふ。然る処に、又張紙をなし肝心の張紙せし者をば捕へずして、科なき者を召捕へて無実の責をなすとて、上を嘲りし趣の張紙をなせしといふ噂なりし。 | |
米 価 騰 貴 と 疫 癘 流 行 | 米仲買共ら召捕られしと麦を取納めしとにて、二百五十文位の米、二百三十二文位と成りしが、これも暫の間にて直に元の如き直段と成りしが、六月に入ると乍ち次第上りにて、五日肥後米一升三百廿文と成る、前代未聞の事共なり。疫邪益々盛んにして、之が為に入(人?)死限り無く、千日の墓所計りに送る処、日々百四五十人になれりといふ。余の墓所も是に准ず。此の如くなれば、非人・乞食へ落ちて餓死するもの其数を知らずといふ。 当月朔日夜、伝法村出火、十三軒焼失、附火のよし。同四日夜島内出火、三町余り焼失、之も盗賊の業なりといふ。此節東奉行出馬なりしに、大いに人気立ちて騒々しく、已に事有らんとする位の勢ひなりしといふ。何につけても不評限りなき事なりといふ事なり。 又中の島平戸屋敷塀に、米三百文に至らば堂島を焦土となすべき由、墨にて書散らせしといふ。七日には米屋々々の店毎に米の入りし半切、悉く明殻らにして少しも米を入れぬるはなく、米一升を強ひて買はんとすれば、三百五十文より四百文なりといふ。 西国橋の欄干に大文字にて、「諸色高直にて万民困窮少からず。米商人・諸蔵留守居共の首を切台に載せ申す可き事」と書記しぬ。
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