Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.19訂正
2000.12.4

玄関へ「浮世の有様」目次(抄)


「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

七月の日次

     
 





 

七月二日より当国能勢郡・川辺郡・豊嶋郡等に一揆起り、人数千九百人余り笹山・亀山・三田等各々領分境を固め、当処より討手向ひ、麻田・桜井谷・小堀・根本・能勢・保科等の人数何れも猟師共を先手となして、一揆張本十三人を四日昼過に討取り 何れも猟師共鉄炮にて打取り、武夫の打ちし鉄炮は一つも当りしはなく、又刀槍にて討取りし者も一人なし。猟師なくんば危し\/。

残党散々に迯行くを大勢召捕り帰りしといふ。

能勢一揆事長ければ別に委く記るす。

気候少も申分なく稲株珍らしき程太り盛なるにぞ、十日過に至り米直段五六十匁下る。

兵庫・灘辺にはこれ迄なしと云し米、諸国より仰山に持込み、売人のみにて買手なしといふ。かく沢山なる米を囲ひ占めて、昨年来多くの人を餓死させし事、天道・人事に背きし致し方悪むべき事限なし。

十七日初相場、肥後米一石百七十匁となる。正米の売買は百五十目にても買手なし。これ迄なしと云ひぬる米の、何れより出来れるともなく、大坂にても沢山の様子にして、今日始めて一升に付百四十文の米を貧人求むる事を得るに至る。

十八九日又米を買占むる者有りて、又米一升二百以上となり、五六人召捕られ入牢す。されども直段は少しも下る事なし。

廿一日卯の刻大雨・雷鳴、辰の刻止む。申の下刻より大雨。

廿二日に至り、辰の刻より盆を傾くるが如し。

廿三日終日雨、大塩が徒大西与五郎忰・吉見九郎右衛門が忰・庄司儀左衛門が忰、江戸へ召下しとなる。

荘司儀左衛門は大坂にて死し、此者の忰なれば、先逹て大井・美吉屋などと同時に召下しとなるべき事なり。然るに其噂をきかず。此度召下しとなりしは、竹上万太郎が忰ならんか。又一説に、大西が忰計りなりともいふ。*1

廿八日時々少雨、暮過より終夜雨。

当下旬相州小田原の沖へ異船来り、「水を切らせし故、水を求る」の由なれ共、騒々敷折節なれば之を取上げず、鉄炮にて打払ひしといふ。同時に薩摩へも異船来り、之も水を求る由なるにぞ、水を与へしに暫は沖に滯留し、夜に入りては地方迄の海中の浅深を見廻れるにぞ、鉄炮にて打払ひ三人を打取りしといふ。元船の大船三艘琉球の島に滞りて、様子を見合せ居たる由、怪しき船なりしといふ事也。

 
     


管理人註
*1 『大塩平八郎一件書留』(国立史料館編 東京大学出版会 1987)解題では、吉見九郎右衛門忰英太郎、河合善太夫孫八十次郎(以上二人は密告者)が9月10日江戸召呼、揚屋入、同日細川家来預、大西与五郎養子善之進が9月14日以下同じ。 「六月の天候」参照。


「浮世の有様」大塩の乱関係目次

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ