Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.6

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

九月の日次 その1

     
 





九月朔日曇。

二日将軍宜下に付、二條殿・近衛殿其外月卿・雲客東行ある。

四日未明より微雨、辰の刻より大雨午の刻止む。

七日未明より時々雨、丑の刻より大雨・雷鳴。

八日時々雨。

九日晴曇不定、午の刻より風少々出づる。是迄姦商共米を買占め隠し置き、種々の風説をなして諸人を困窮せしめしか共、眼前に稲は至つて宜しく、早稲をば先達て取込み、中稲・晩稲も至つて満作なる事は、小児の目にも留る程の事なる故、姦商共も今は施すべき手段もなく、諸国よりして是迄なしといひし所の古米追々に登りぬる故、詮方なくて七八日の頃より米価下落するに至り、十三日頃は長州の古米一石に付、百三十五匁となり、余の米直段も是にて知るべし。

 
 








貧窮なる者共は是迄種々様々と積りをなし尽して、食物に鍋・釜迄喰ひはてぬれは、今更に米価下落せしとて、これを求めぬる手当もなきに、是迄は一つ有る所の衣類をも食に宛てぬれ共、又寒空に向ひぬれば、米の外に身を掩はずしてはなり難き時節に至りぬるにぞ、愈々堪へ難くして、日々乞食となれる事なるべし。

近来の乞食多き事其限なし、市中の往来群をなす程の事にて、食を乞へ共之を与ふる者も稀なるにや、飯櫃の洗ひ汁・肴の骨・腐れたる物・犬にやる物・柿の皮にても香の物の切端にても、湯にても茶にても、一口与へ命を助け給はれと、昼夜叫び廻れる声の、哀れにも喧しく耳に立ちて堪へ難きに、

 












小盗人共頻りに徘徊し、一町内にて二軒・三軒、多きは四五軒程も格子をはづし、店を取り簀戸をはづし、天窓より入るなどありて、昼夜共騒々しき事共なり。


 










加賀の家中に叛逆人これあり、江戸に於て主人を毒殺せんとす。侯之を悟りて其食を喰はず、膳番・茶道等へ之を喰はせられしに、何れも吐血煩乱して死す。之に依つて直に巌しく吟味有りて其逆人を誅し、穏梗に鎮りしといふ。

され共、加・能・越の三国の領分は一統徳政を申渡され、富める者共は申すに及ばず、京・摂其外他国より入込し商人共大に難渋に及び、いかんとも詮方なしといふ。され共貧窮の者共へは一統に扶持を与へ、悉く之を扶助せらるゝといふ事なり。質屋などは株有りて運上ある者なれば、十分一にて取引せよとなり。其余の株も之に准ず。例へば百目にて置きし質物なれば、銀子十匁にて本人へ返し遣すべしとなり。正しき政事には非ず。

 
 





九月十三日・十六日・十八日、将軍宣下・御転任御祝義等相済。京都へ御礼の御上使十月相済。

同月始め七八日頃より米価次第に下落し、百二三十目位なりしが、同 廿日頃より米払底の由を言ひはやらせ、又百五六十匁位となる。されども其頃よりして打続き天気の都合も至つて宜しく、米も少々づつ入津する様になりしかば、又下りて百四五匁となりしが、暫くは百目前後にてすわり居しが、又九十匁前後となりて、十一月下旬までありしが、又八十五六匁位となる。非人・乞食共多勢道路に倒れ死せる事、限なき中にも十才以下の子供尤多し。

 


「九月の日次」その2
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