九月の日次 その2 |
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河 合 郷 左 衛 門 死 骸 |
大塩が一味河合郷左衛門、能登に隠れありしを加賀より捕手に向ひしかは、或山中に逃入しと云。大勢にて其山を取巻押詰しかば、詮方なくして切腹せしかは、其死骸を塩漬となし、大坂へ来りしといふ。*1 |
大 坂 に 送 ら る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
党 人 評 定 所 へ 引 出 の 警 護 |
大塩平八郎党の内、江戸表に御著(差)下の者共、細川越中守殿江御預け相成り評定所へ引出の節、固め左の通り。
一、美吉屋五郎兵衛女房は入牢に相成候由。
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十月に至りても米相場は九十目前後にて、格別の大狂なし。 十一月十八日未明より辰の刻頃迄、雪少しく散らつきしかど、聊も地に積れる程のことなし。 同廿八・九・晦日の頃南方の空大に光る、稲妻の如し。米の相場はやはり九十目前後なり。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大 塩 与 党 |
同下旬大塩一件に付、江戸より御勘定吟味役等四五人著せられ、十二月二日東御奉行所へ大塩掛りの者共総召出にて、これを鈴木町御代官根本善左衛門殿へ引渡に相成り、これ迄は親類預にてありし科人も、今日より入牢となりしが、同七日御代官へ呼出されて、何れも根本の取調べとなりしといふ。 同九日風、初更地震あり。 当冬は雪も先月の少雪計りにて、其後少しも降る事なく、霜は仰山に降れども至つて暖にして、十月初め頃の時候の如くなりしが、十日に至り寒気甚しく、十一日寒に入りしかば、こは寒の印ならん。これ迄の暖気過しを人々大に恐れ、かくては来年もいかゞあらん、地震にてもゆりやせん、先年住吉・天王寺等の焼けぬる時、南方大に光りしが、かゝる兆にやあらん抔とて、何れも恐れしが、寒気強くなりぬるにぞ、人々心を安んずるに至る。
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根 本 の 取 調 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市 中 の 追 剥 |
同十六日の事なりしが、尼ケ崎町竹川彦太郎といへる両替屋の丁稚、弍朱金三百両革財布に入れ之をかたげ、玉木(玉水)町加島屋安兵衛丁稚は手形にて二千両を懐中し、両人連立つて安土町炭屋安兵衛方に到り、夫より瓦町難波橋筋の少し西を通りしに、悪徒三人附来り丁稚を捕へ、耳元にて竹鉄炮を打しかば、大に驚き其所にへたりしを、懐中より切物を取出し、帯に括り付けたる財布の紐を切り、これを奪ひ取りしにぞ、 丁稚大に叫びしと鉄炮の音とに驚き、近辺家毎に悉く門口を閉ぢぬ。其処の番人賊一人を捕へ、これを組合ひゐる処を一人の賊駈来り、番人数ケ所手疵を負せ組まれし同類をも殺し、己れも咽を突きしかども死せざる故、近辺にて未だ門口を締めずしてありし紙屋へかけ込み、助けくれよといひぬるを、大勢寄合ひ之を召捕へ、御番所へ差出せしといふ。 今一人の賊は金を取て相〔其か〕場を逃れしかども、四五日過ぎて順慶町にて召捕られしといふ。こは十六日の昼過の事なりしといふ事也。 白昼に市中に於てかゝる賊をなせること、時節とはいひながらも傍若無人の振舞にして、上に諸司もなきが如し、欺ずるべき事なり。
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