Я[大塩の乱 資料館]Я
2004.6.11

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「浮世の有様 巻之八」

◇禁転載◇

米価調節と占買売惜の禁制  その5

 


斯かる町柄を見込み、幸に其 町に伊勢屋藤助とて、大西屋金蔵に謡の弟子あるにぞ、此者に頼み同町に住める堺屋源兵衛 之は口入にて年寄佐兵衛が隣家なり といへる口入を取込み年寄たらし込み、島屋利右衛門借金だらけにて貧困に迫れるを見込み、只世間一通なる売買にては、大抵五十目の家ならば、二三割も其値を高価になして、其味を見せぬるにぞ、町役人共迄其汁を吸はんと思ひて、忽に其相談整ひて十三箇年前に出来す。

 














大西屋金蔵鎌田掃部と改名し、留守居役となりしが、此者は斯かる山子を思ひ立ちて、仕当てぬる程の器なる故、大に人和を得、又余り権威振らざりしが、其余京都より出来りし侍、其外新抱の者共宮の威光を笠に著て、商人の天窓(あたま)を打割り往来の者の無礼を咎め、之を屋敷へ引立来り散々に打擲し、又出火の節には宮の印の高張灯燈を燈し、人夫を引連れ火事場へ致り、往来の人を打擲し、又町内の若き者共を屋敷へ引込み博奕をなさしめ、之が為に大に難儀をする者少からざりし。亦大坂豪家の町人共も、近来諸侯多くは不実をなし、町人を騙し金を借入れ、其儘に其金をへたり、町人共に難渋をかけぬるにぞ、何れも此屋敷へ取込み、宮の名目にて諸侯へ貸付をなす。之に依つて大に勢を振ひ、調連講を催し其金にて米の買占をなす。其買占の事専ら世間にて風説ありと雖も、宮家の留守居故、近年の年柄にて公儀より頻に米買占の御吟味あれども、彼が事は町奉行にも宮家を憚れる故にや、少しも其調べ無かりしが、掃部も昨年病死して、其子修理其跡を嗣ぎて留守居となる。此者は年若きにぞ、其元をも打忘れ宮の威光と己れが富貴なるに任せ、大に権威振る事なりし。

鎌田碩安は修理が為には伯父也。此者子無かりしにぞ、他家より養子をなせしに、年六十に及んで下女に手をかけ、男子を産む。之より其小児を愛し、下女に惑溺へる処よりして、自ら養子と不遇に成りぬるにぞ、六十に余れる年に至り、小児・下女を引連れ大坂へ下り、始め貸座敷に在しが後、中の島に借宅し、頻に門徒坊主を引入れ法談せしめ、大に人寄をなし、其名を売りて医業を弘む。

 









鎌田修理伯父甥の親しき間なるに、己が身を高振る処より年始の礼に彼が処へ行きけるに、三十間も手前より若党を走らせ案内を乞ひ、其身取次に対し、「鎌田修理年頭の御祝詞申す、宜しう」と庭にで言置き立帰りぬ。山子碩安も彼が其元を忘れ無礼なるを慣り、外にて之を吹聴し、伯甥の間なれども憎き奴なりと云ふ、され共不快の様子なり。之等らの事にて彼が人柄を知るべし。梶木町の出火に大勢の人足を引連れ、火事に隣れる加島屋作兵衛が支配人、加島屋藤八と云へる者の宅に到り、此者の家を宮の御絞付の高張灯燈立てさせて、人足にて是を固め、往来の人を払ひ、町奉行の火消人足迄打擲す。之に於て東町奉行跡部山城守組下の与力萩野庄助と云へる者、藤八方に出来り、「宮の人足非常の場所に用事あるべき事なし。邪魔になりぬる故早々引取るべし」と云ふ。鎌田が答に、「当家には宮より大切なる書物を預け置かるゝ故、夫れを守護の為に罷越したり、引取り難し」と云ふ。萩野が云ふ、「有栖川の宮より町家の者へ大切の書類御預け有るべき道理なし。され共万一左様なる事にても之あらば、一応奉行所へも御届け之有るべき筈の処、其儀なし。其書物とはいかなる書物なるや」と問詰めしにぞ、「御殿御修復御手当調達講の帳面類なり」と答ふるにぞ、「調達講公議御法度の事にて、是迄厳しき御制禁の御仰渡され有る事なり。故に宮に左様の事なさるべき様なし。夫共に其御催之あるに於ては、一応奉行へ御達も之有るべき処其儀なし。何分にも左様なる事に携る段、藤八不埒なり」とて、直に会所へ引立行き段々吟味し、「直に入牢申付くべき奴なれ共、老人にて病人 藤八吟味厳しかりし故、大に驚き会所にて、気絶せしと云ふ。 の事なれば、所の者へ急度預け置くべし」とて、家内は付立となる。

 
 


「米価調節と占買占売の禁制」その4
「浮世の有様」大塩の乱関係目次3

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