大西屋金蔵鎌田掃部と改名し、留守居役となりしが、此者は斯かる山子を思ひ立ちて、仕当てぬる程の器なる故、大に人和を得、又余り権威振らざりしが、其余京都より出来りし侍、其外新抱の者共宮の威光を笠に著て、商人の天窓(あたま)を打割り往来の者の無礼を咎め、之を屋敷へ引立来り散々に打擲し、又出火の節には宮の印の高張灯燈を燈し、人夫を引連れ火事場へ致り、往来の人を打擲し、又町内の若き者共を屋敷へ引込み博奕をなさしめ、之が為に大に難儀をする者少からざりし。亦大坂豪家の町人共も、近来諸侯多くは不実をなし、町人を騙し金を借入れ、其儘に其金をへたり、町人共に難渋をかけぬるにぞ、何れも此屋敷へ取込み、宮の名目にて諸侯へ貸付をなす。之に依つて大に勢を振ひ、調連講を催し其金にて米の買占をなす。其買占の事専ら世間にて風説ありと雖も、宮家の留守居故、近年の年柄にて公儀より頻に米買占の御吟味あれども、彼が事は町奉行にも宮家を憚れる故にや、少しも其調べ無かりしが、掃部も昨年病死して、其子修理其跡を嗣ぎて留守居となる。此者は年若きにぞ、其元をも打忘れ宮の威光と己れが富貴なるに任せ、大に権威振る事なりし。
鎌田碩安は修理が為には伯父也。此者子無かりしにぞ、他家より養子をなせしに、年六十に及んで下女に手をかけ、男子を産む。之より其小児を愛し、下女に惑溺へる処よりして、自ら養子と不遇に成りぬるにぞ、六十に余れる年に至り、小児・下女を引連れ大坂へ下り、始め貸座敷に在しが後、中の島に借宅し、頻に門徒坊主を引入れ法談せしめ、大に人寄をなし、其名を売りて医業を弘む。
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