Я[大塩の乱 資料館]Я
2004.6.18

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「浮世の有様 巻之八」

◇禁転載◇

有栖川家調達講の仕置  その1

 

調






夫より京都有栖川宮へ町奉行より聞合せ候ひしに、「いかなる事にや左様なる事なし、」との答なりしと云ふ。此故に藤八宅に有る処の調達講の書類御取上になりて、之に携れる者共悉く召出されぬる様になりぬ。鎌田は総会所預けと成り、玉水町にて百足屋太右衛門・加島屋安兵衛・手代庄兵衛、大川町にて庄田藤助、平野町にて平野屋甚右衛門、江戸堀一丁目にて加嶋屋市郎兵衛・同人別家加嶋屋万助、布屋町にて有栖川屋敷守吉田屋源次郎、何れも夫々の町内へ御預けとなる。講の帳面類をば奉行所へ取上げとなり、其御調べ有りて、其講世話方の者は云ふに及ばず、講に加入せし者迄一一御吟味となるにぞ、其掛り凡六百人余りなりと云ふ。加賀屋藤八は此一件に付き家財付立の節、御法度に背き斯かる米価高き折柄なるに、米切手多く買占め置きぬるにぞ、別段講の外に二三箇條の罪を造しぬる由。有栖川宮御屋敷には諸太夫両人も下り来りて、騒々しき事なり。此屋敷の名代は大西屋金蔵と云ひ 鎌田掃部が下地の名前なり。只名目計りにて其人なきを年寄が承知にて捨置きしなり。家守を吉田屋源次郎と云ふ。町内承知の事なる故に、金蔵は名前計りにて此者の印形なりとて源次郎之を持参し、人別帳に之を捺し、十三箇年已来訳なしに過ぎ来りしが、此度の大変に付ては名代の事故、金蔵を何時呼出に相成らんも計り難し、其人なくては町内申訳なく、年寄米屋佐兵衛如何なる御咎あらんも計り難しと、今更暴に胆を潰し、年寄大に慄ひうろたへ、町中会所へ寄集り、種々評定をなし屋敷へ掛合ひ、暴に屋敷内の者を以て大西屋金蔵と云ふ者を拵へたり、其騒々敷狼狽へぬる有様、浅ましき事にてをかしき事なりし。

 










米屋佐兵衛が前に年寄役を勤めし島屋理右衛門といへるは、此者の親父は玉水町嶋屋市郎兵衛手代なりしが、本家を守り立し功に依つて別家して、後本家よりして一家竝となりしが、斎藤町にて両替店を出し、之を商売とす。其子当時の年寄なり。此者大に身体を持崩し、諸人の金銀を取込み、門口を閉し、本家を相手に分家・別家の争ひをなして、本家へ対し不埒なりしかば、本家是を憤り、分家竝を取上げて元の別家とす。世間の人々の金銀多く取込し故、諸処・方々より町内へ引合入り、目安断る事なし。中にも大用町加嶋屋又兵衛は銀子五六十貫目取込まれ、何程に掛合ひ詰(なじ)れ共、聊も取敢ざる故大に憤り、手筋を求めて公議御八判を申下し、思も寄らず斎藤町へ御八判来のし故、嶋屋は云ふに及ずず町内大狼狽なりしが、忽ち御奉行所に双方共御召出にて御調べ有りしに、御八判の取次いたせし者に、又兵衛より多くの金子遣はせしやらんにて、何か怪しき事これ有りて、其申訳立難く、加嶋屋又兵衛は申すに及ばず、御八判持参せし者迄入牢し、両人共牢死す。其後に至りても島屋理右衛門 此頃は年寄役せし者は死去し其養子なり。之は眼科三井元寿が弟にて、此家に入家せいなり。 

頻に山子を集め、不正の事のみなし暮し、町内の厄介者なりしが、次第に零落し、高津新地へ名前引取となる。中には恐ろしき工み事抔も有りしと云ふ取沙汰なりし。此家に立入る者諸商人は申すに及ばず、日雇をなす者に至る迄、一人も損せざる者なかりしとなり。

 


「有栖川家調達講の仕置 」その2
「浮世の有様」大塩の乱関係目次3

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