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元文三午年にも同様の事にて、已に曾根崎新地の内を、蜆川より北新地裏町を南側迄を三郷市中に取込まれて、北側より北を在領として之を下京と云ふ。
此時福島も同様に取込るゝことなりしに、御代官布施弥三郎と云へる人、村役人葭屋九左衛門といふ者と心を合せ、諸人の難渋を救はんとて之を拒みて、御代官には切腹をなし、葭屋九左衛門は江戸へ召下しとなりぬ。斯かる事を目論(もくろ)みて、下方より其利用を申立し者三人有りしと云ふ。葭屋九左衛門も一命を捨てゝ福島村の諸人の難渋を救はんとて、右三人の者共と公事に及びしが、何分三人の者共より公議の御益を申立てゝ、かかる目論みをなし、御町奉行見分の上、竿を入れ繩張等も有りし程の事なる故、始の程は負(まけ)公事の様子にて散々の事なりしが、一命を抛ち諸人を救はんと、一心を定めて少しもひるまざりしと、御代官の切腹して無用の由を申立られしとにて、終に右三人の者共獄門の刑に行はれて其事止みしと云ふ。
右に付、布施氏の墓所へ 福島の内五百羅漢の寺内に有り 諸人今に至る迄参詣す。昨酉年は右百年忌に当りて、同寺に於て法事勤まりしと云ふ。今年百一年目に当りて又此催し有りとて、福島の者の之を語りぬ。葭屋九左衛門が家当時に至りても大に繁栄す。其時の始末同人方に委しき記録有りと云ふ事なり。
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