岩波書店 1940 より
序 説 |
中斎学説の第五は去虚偽なり。
信なくんば民立たず、自ら欺かず、他を欺かざるのみならず、心上独知の境に於て虚偽を去る
べしとは聖賢の既にいましめしところなり。自己に忠信なる生活をなすことは、吾人の精神生活
上必須の緊切事なり。中斎之を喝破して箚記の上に曰ふ、
余、一諸生の鏡に臨み髪を理むるを見る。因て之に謂うて曰ふ、明鏡に臨んで鬢髪の鬆るゝか鬆れざるかを照らさんよりは、良知を明かにして切に意念の誠なるか誠ならざるかを察するに 如かず。鬢髪は鬆ると雖も君子たるを害せず、意念誠ならざれば則ち禽獣たるを害せず――と。
更に曰ふ、
良知を致すの学、但だ人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことなかれ、其の工夫は屋漏より来る。戎慎と恐懼と須臾も遺るべからず。一且豁然として天理を心に見ば、即ち人欲は氷解せん、是に於て洒脱の妙此れに超ゆるものなきを知るべし。
人欲を去り天理を心に見る境を、「心性晶亮広大与天地日月一般」とも説明せり。然して此境地は良知を致して太虚に帰入せる者にして始めて悟入し得る至善境、真美境なり。修練以て此の境に入らざれば、即ち徒学空談の類か。
致良知を以て人生行路上の第一緊切事となす中斎にとりて、人欲を去ることは其の第一階梯なり。その除去の必要欠く可らざることは、彼の屡々力説せるところ、修練上致良知を妨ぐるものとして四知を挙げて「此の四知は賢者と雖も免れざる所あり、学に志ざすものは彼の四知の邪障を掃うて是の一知を明かにせざる可らず、故に某一語あり、曰く、邪障徹つて而して露光見はると、露光見はるれば則ち彼の四知皆融会して良知の用をなさざるはなし、良知も知覚聞見を廃するを得ざるなり」と、その除去を力説せるかくの如し。
致良知を力説し、帰太虚を高唱する中斎は研学の最高目的として孝悌を拳げ、以て中斎学説の最高峯となせり。
致良知は之を広義に解すれば、「孝弟也者其為仁之本」(論語)、又た孟子に曰ふ「堯舜之道孝悌而已矣」なり。我国に於ても中江藤樹は孝を万善の根本として崇信せるは周知の如し。中斎は曾て藤樹の致良知の真蹟に跋して曰く、
夫れ道は四書五経に載せられ、太だ散漫にして要なきに似たり、而かも至要なるものあり。至要とは何ぞ、喜怒哀楽のみ。喜怒哀楽は亦た惟だ仁義礼智のみ、仁義礼智は亦た惟だ仁義のみ、仁義は亦た惟だ孝弟のみ、孝弟は亦た惟だ孝のみ。而して孝は外よリ鑠するものに非ず、学ばず、慮らざるの知能にして、孩提の童も其の親を愛するを知らざる無きの良なり。其の良は他に非ず、天の太虚霊明のみ――と。
中斎は道の至要を喜怒哀楽に、喜怒哀楽より仁義礼智に、仁義礼智より仁義に、仁義より孝弟に推本し、終に之を孝に帰入せしめ、更に不学不慮の良知に帰入して太虚霊明に合致せしむること左の如し。
「乃ち巻を掩うて嘆じて曰く、孝を以て万善を貫き、良知を以て孝を貫き、太虚を以て良知を統ぶ、而して天地聖人易簡の道是に於て偶々之を獲たり。」(増補孝経彙註序)