Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.5.24

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『洗心洞箚記』 (抄)

その17

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

本 文

信疑毀誉は仁人君子の免れざる所なり、然り而て信疑に真あり妄あり、故に毀誉に公あり私あり、明者は必ず察し、識者は必ず弁す、

我が中斎先生の門人、嘗て先生の箚記を刻す、先生之を高嶽に臓し、諸(これ)を 勢廟(せいべう)に献じ、以て其の神に質す、其の神に質す所以の意は、太史公の名山に蔵すると亦た同じからず、故に上は高官より、下は吏胥(りしよ)に至るまで、苟も政教に与かる者には、則ち必ず呈し且つ贈る、

是に於て先生を信ずる者は則ち誉めて曰く、是れ世の為めなりと、

先生を疑ふ者は則ち毀(そし)つて曰く、是れ名の為めなりと、然れども此れ則ち既往に属す、弁ぜずして可なり、今茲(ことし)乙未の夏、書肆の請に困つて、以て海内の士に示す、

亦た惟だ汲々遑々(くわう\/)として覚を事とするものなり、

是に於て先生を信ずる者復た誉めて曰く、是れ道の為めなりと、

先生を疑ふ者復た毀つて曰く、是れ利の為めなりと、

嗟乎(あゝ)、夫(か)の一信一疑一毀一誉、未だ其の孰(いづれ)か真孰か妄孰か公孰か私なるを知らざるなり、

之を要するに皆未だ必ずしも先生を知らざる者の言なり、夫れ固より先生を軽重するに足らず、

先生の嘗て仕途に在るや、其の清徳廉行苞苴(はうしよ)を鞭撻して、家に鬻獄(いくごく)の銭を納れず、海内の士識ると識らざると、皆能く之を熟聞す、然らば則ち夫(か)の俗論の若きに至つては、喙(かい)を其の間に容れず、而て清濁義利居然として見るべし、而も今呶(ど)々として已まざるも のは何ぞ、此れ特に先生を目するに利を以てする毀(そし)れる者の為めにして発するのみ、

昔宋の王元之嘗て李継遷(りけいせん)の制を草す、馬五十匹を送つて以て儒潤に備ふ、元之之を却(しりぞ)く、出でて(ぢよ)州に守たるに及びて、(びん)人鄭褒(ていほう)徒歩して謁す、元之其の儒雅を愛し、乃ち別るに為めに一馬を買ふ、

或言ふ、馬を買ひ価を虧(か)ぐ者なりと、

太宗曰く、彼れ能く継遷の五十匹を却く、顧(かへ)つて此れ肯(あへ)て価を虧(か)かんやと、

先生の苞苴を鞭撻し、鬻獄の銭を納れざること此の如し、而て今自から書を售(う)つて細利を貪らば、則ち五十匹を却けて価を虧ぐ者にあらざるか、是れ理の無き所なり、先生の門に在ること僅に茲に一年なり、未だ能く其の室家の好(よ)きを窺ふ能はずと雖も、然かも其の先生を議する者の言に於ては、則ち嘗て之を聞くこと久し、

随つて聞けば随つて弁じ、未だ肯て他人に譲らず、故に今斯の書の出づるに於てや、復た之を弁晰(べんせき)せざるを得ざるなり、夫(か)の道の根底と、学の淵源とを論ずる如きは、則ち堂に升(のぼ)る者の責(せめ)のみ、の敢て当る所にあらざるなり、

然り而て太虚良知の義に於ては、既に耳に徹して心に存す、唖子苦李(あしくり)の味を告ぐる能はず、而て独り自から之を知らんのみ、謹んで跋す。

 天保乙未夏四月         門人 湯川幹 撰

   【原文(漢文)略】


『洗心洞箚記』目次/その16/その18

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