岩波書店 1940 より
附録抄 |
大塩先生左右 吉村晋
安(あき)の後進吉村晋、謹んで書を大坂大塩先生執事に奉ず、
晋聞く、君子は辞を修めて其の誠を立つ、
誠立つて、辞即ち修し、意即ち達す、
感応の際、遠近幽顕あること莫しと、苟も然らんか、
夫(か)の山河千里の阻、何ぞ道(い)ふに足らん、
晋は一介の書生にして、其の執事に於ける、固より瓜葛傾葢(くわかつけいがい)の素あるにあらず、
又た旧故先容の言を待たず、
一旦率爾として言を左右に進む、
常情を以て之を言へば、孰(た)れか疑ひ且つ惑はざらんや、
而も頼む所は特に区区嚮慕の誠のみ、
伏して惟ふ、
執事寛明の聴(ちやう)を留め、狂妄を斥くること毋(な)くば幸甚し、
晋幼より学を知り、乃ち意を進修に鋭うす、
然り而て期する所は則ち記誦聞見辞賦操觚の習のみ、
徳に進み、業に居るは、其の何物たるを知らず、弥々進み弥々陥る、
而て内に存するものを顧みれば、即ち莽然たる荊棘のみ、
是に於て自から懲り自から悔い、始めて君子の学に志あり、
先哲の遺訓を守り、以て上達の功を求めんと欲す、
而て自から憫む、
資禀庸陋(しひんようろう)、之に加ふるに旧習の遽(には)かに脱し難く、支蔓繚繞(しまんれうぜう)、一を得て二を遺(のこ)し、皇皇として徒に苦しみ、未だ纖介(せんかい)の效を収むる能はざるなり、
独り姚江の説、明快簡切、我が輩下等の人と雖も、亦た少しく実落下手の地あるを覚え私心竊かに喜ぶ、
因つて更に江都(えど)に遊び、司成林氏の門に入り、業を佐藤一斎に問ふ、
居ること数年、則ち益々未だ聞かざる所を聞く、
然る後方今の学者の業を視るに、大抵我が前日既に悔いし所のもの、乃ち謂ふ悪(いづくん)ぞ豪傑の士、聴明特達、時臭を遂はざる者を得て、而て之に従つて游ばんか、死すとも且つ朽ちずと、
時に或は之を言議に発すれば、則ち衆必ず笑うて以て狂と為す、
今已に三十余歳、孑立(くくけつりつ)、志を革廬に守るのみ、
往者仄かに道路紛紛の言を聞くに、大坂に大塩君といふ者出づるあり、
才識雋偉(さいしきしゆんい)、学に根柢あり、
而て治獄異績を立て、人々積頌口に容れずと、
後復た聞く、
既に事を致し、心を学に専らにし、卓然道を以て自ら任じ、従前の学者の陋を一洗せんと欲すと、
晋之が為めに奮興喜躍す、
吁嗟、天か、斯(この)時に当つて斯人を生ずる、
謂はゆる聡明特達豪傑の士、斯人にあらずして誰ぞや、
我が道復古の機、将に是にあらんとするか、真に人をして勃勃として気を増さしむ、亦た竊かに天下の為めに賀するなり、
然れども躬猶事故係累多く、未だ直ちに下風に趨(はし)り厳教を請ふ能はず、
恨嘆已むなし、是を以て姑く且つ賤名を通じ、情素を呈す、
而て後将に正に就く所あらんとす、
唐突の誚(そしり)を犯して辞せざる所以なり、
伏して翼ふ西方の行李、もし或は○○○○、以て区区の望を慰むれば、感戴何ぞ限らん、
唯だ執事之を裁せよ、十一月望日。
吉村氏は安芸の人、儒を業とす、俗名は隆助。
【原文(漢文)略】