Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.15

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『洗心洞箚記』 (抄)

その3

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

序 説

一 生 涯 (3)

 文政三年十月、東町奉行彦阪和泉守職を罷め、翌月高井山城守山田町奉行より転じて其の後を襲ぐ、時に年六十余歳。人となり温厚忠良、君子の風あり、兼て鑑識に富み、中斎を重用して其の手腕を十分に揮はしむ。時に中斎二十八歳なり。此の時代こそ中斎の最も活躍したる時代にして、かの三大功績と称せらるる豊田貢の妖教事件を始めとして、奸吏糾弾事件、破戒僧処分事件等も水を洩らさぬ手際を以て処理せり。其の他大小数百の事件に手腕を発揮して天晴れ名吟味役よと謳はれしも此の時代に属す。其の間中斎は講学育英の念に燃え、かつ漸く肺患のため劇務に倦怠を覚ゆるに至り、山城守に退職を乞ふこと数度、遂に許されざるを知り、西田清之進の第二子格之助を養嗣子となし除々に退職の機を窺へり。時に格之助十六歳にして、中斎三十四歳なり。格之助性謹恪、坐作進退礼にならふ。猶中斎山陽外史と交を結ぶに至りしも此間の事に属す。

 天保元年、奉行高井山城守古稀に近きを以て退官せんとす。中斎之を機としも己れ亦退職を要請して許され、職を養子格之助に譲つて閑地につき、専ら講学に従事す。時に三十八.到仕直後祖先の墳に謁するために尾張に適く。山陽「送大塩子起適尾張序」一篇を贈り其の行を壮にす。退職の日、招隠の詩を賦して曰、

 天保二年、三十九歳、始めて閑境に処り、講学著述に専心し、まづ古本大学刮目を編し、ついで随時の感想所得を洗心洞箚記と名づく。

 天保四年、中斎四十一歳となり、最も記念すべき一年を送りぬ。即ち其の四月洗心洞箚記を家塾に刻して之を富士石室及び神宮文庫に納め、佐藤一斎と往復し、藤樹書院に経を講ずるなど、其の晩年を飾るにふさはしかりき。而して中斎の身辺が亦た風雲漸く急ならんとせるも此の年なり。七月矢部駿河守が堺町奉行所より転じて大阪西町奉行となるや、中斎の人物に深く傾倒し、其の子を洗心洞に入れて教育を託すると共に、中斎を延いて顧問となし、賓師の礼を以て之を待遇せり。然して其の八月穀価の騰貴に際会し其の処置を誤らざりしは中斎の献策を納れたるによる。

 天保五年正月、元旦詩を賦して餓民を思ひ、其の苦衷を表しぬ。此の年より天保六年に至る二年間、中斎は、太虚講学の一路に従事し、時に出でて伊勢に遊び、儒門空虚聚語を神宮文庫に納め、或は林崎文庫に経を講ずるなど、学者至高の栄誉を獲得しぬ。然して養嗣格之助橋本忠兵衛の女みねを妻はせるも此の間の事に属す。


石崎東国『大塩平八郎伝』 その43


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