Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.22

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『洗心洞箚記』 (抄)

その4

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

序 説

一 生 涯 (4)

 天保七年三月、東町奉行大久保讃岐守職を退き、翌月跡部山城守之に代る。此更迭こそ中斎に取りて至大の関係ありしこと、後日特に其の感を深くす。これよりさき大阪茶臼山一心寺の獄起り、之に連坐せる東組の与力中に、大西某はじめ中斎の親戚門人多し、中斎之を以て公儀を遠慮して文武の稽古を中止して謹慎の意を表す。

このころ平松楽斎に書を贈つて、「修身の二字を以て塵を塵中に避け候よりいたし様無之と存候」と書き、又た「方寸一点の霊光を恃にいたし命を俟つ而已に御座候、知己の老兄にあらずして誰か能く愍察致呉候哉」と書き送れるは、中斎が虚身上如何に細心なる注意を払へるかてふ一面を語るものにあらざるか。

更に四月跡部山城守就任直後、門人両者其の事件のため咎を上司に買ひ遂に自尽す、このため中斎亦た幕府の嫌忌を買ふに至る。

九月西町奉行矢部駿河守職を堀伊賀守に譲りて江戸に移る。斯くて中斎の晩年は漸く凄滲昨期に入る。

天保七年は二月以来霖雨熄まず、五六月の候冷気甚しく、七八月暴風雨頻りに至り、五穀熟せず、天明以来の饑饉と称せらる。其の事天満水滸伝、天保饑饉物語等に詳なり。又た森林太郎も其の大塩平八郎伝附録に此の間の消息を明かにせり。右によれば米価は暴騰して平年の五六倍、甚しきは十五六倍に至れり。八月甲州都留郡の土民蜂起し、其の数一万数千名、申府に迫り救済を訴へて許されず、遂に豪戸を襲ふ。

九月中斎は洗心洞に於て砲術の練習を始む。前述の全国的饑饉に際し、大阪蔵屋敷其の他の在米高減少するや、跡部山城守は他所積出制限令を発し、此の窮境を打開せんとせしも其の時機を誤まり、遂に奸商の好餌となり怨嗟の声を都鄙に満たせし以外寸效なかりき、

中斎此の間に処し再三献策して米価調説を説きしも、奉行は一顧だにせず、積出米の制限強化と米価抑制の以外に施す術を知らず、巷路に死する者万を以て数ふるに至り、遂に中斎をして「京都の儀は如何被遊候哉、天の君御座所に御座候へば、当地より米穀登せ不申候事は決して相成不申候。此儀は等閑の儀にては無之、能々御賢慮奉仰候旨段々被相願候得共、一向に御取用無之、却而京都へ米穀登せ候者有之候へば可為曲事旨を触れ流し有之候より、此地得意の米屋共より密かに白米を樽詰に致し差送り申候処、右の者共を召捕へ糺問被及候由、甚以て不可の御取計ひ、此儀何共平八郎了簡ならず被存候」と云はしむるに至れり。

 十一月、大阪両町奉行に於て在米維持に狂奔せる際、幕府より江戸廻米の命出づ、従来積出制限を強行せる跡部山城守は、進退両難に陥り、在々有合米の江戸積出を諭示して表面を糊塗せり。陋なりと云ふべし。

十二月米価の勝貴益々甚だし、市民の餓死する者続出して其の数を知らず。是に於て中斎養子格之助をして町奉行に上言し、官廩を開きて窮民の救済をなさんことを以てす。奉行之を諾するも、荏苒日を空しくして実行せず、迫請数度、遂に其の拒絶に偶ふ。中斎長太息して曰ふ、「民の父母たるもの無情此に至る、万策尽く」と。


石崎東国『大塩平八郎伝』 その89
「後素手簡」その20
森鴎外「大塩平八郎」その16
『洗心洞箚記』目次/その3/その5

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