岩波書店 1940 より
序 説 |
天保八年正月中斎四十五歳。去歳上言数度何れも許されず、窮余富商動誘の一途を選びしも果さず、中斎憤つて曰ふ、
「吾れ当に一身を犠牲に供して窮民の為めにする所あるべし」
と、遂に其の八日門弟子と洗心洞に義盟を結ぶ、加はるもの三十余人。
二月、書賈河内屋善兵衛等を呼び、蔵書五万巻を売つて六百数十金を得、之を窮民賑恤の資となせり。
十五日夜同志と会して、挙兵の期日一般方略を洗心洞に議す。
これよりさき西町奉行堀伊賀守入府して、任に就き、恒例により市中を巡視せんとし、而して天満地方は十九日に相当す。此の日は偶々洗心洞春月釈奠の例日に相当せるを以て、中斎は之を絶好の機会として事を挙げんとせる如し。
二日前檄文を頒布す、其の文は「四海困窮せば天禄永絶」の語に筆を起し、神武中興の恢復せざる可らざるを切言し、慷慨淋滴、終に弔民唱義の挙の已むべからざるを述ぶ、蓋し中斎一代の精力を此の一篇に傾倒したるものか、
然るに十七日変節したるものあり、深更に跡部山城守に密訴したるを以て其事露顕す。
又た変節して堀伊賀守に内訴状及び檄文を呈せしものあり、中斎曰く事此に至る、直に発せんのみと、
十九日午前、遂に盟軍の進出となる、これぞ一世を慫動せしめたる大塩騒動なり。
兵火の消せざること三日夜、遂に敗れ、中斎父子夜陰に小艇を浮べて踪跡を晦ましたるも、遂に発見せられ、家を焼きて焚死す、時に天保八年三月二十七日なり。
中斎の此の学を今日の政治運動と見、社会運動と見るは当らず、これを倫理運動と見る時に於てのみ、此の事をなさざるを得ざりし中斎の心事は理解せられんか。川田甕江が
大塩中斎天資英邁、学余姚を奉じ、当時一斎、山陽、拙堂諸儒皆推服す。特に其の兵を挙げて克たず、身荊戮を被るの故を以て、後人疑を心術に致す、殆ど中斎を知る者に非ず。蓋し天保中歳饑ゑ、途に饑あり、中斎倉廩を発し民を救はんと欲し、姦吏の沮む所となり、情切に、勢迫り、遂に干戈に及ぶ、乱臣賊子と科を同じうして語る可らず。近日西洋に、心国家の為めにし跡叛乱に渉る者を目して国事反と曰ふ、中斎の如きは是なり。此書(洗心洞箚記)は中斎の手録にして、平生自得する所、而して其説太虚を以て帰となす。夫れ心果して虚ならば、寧ぞ人を殺し国を奪ひ以て栄利を求むる者あらんや。読者中斎の迹を舎て、中斎の心を取らば斯に可なり。
と、明治十四年板行の洗心洞箚記に序して曰へるは、知言と謂ふべし。