Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.1

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『洗心洞箚記』 (抄)

その5

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

序 説

一 生 涯 (5)

天保八年正月中斎四十五歳。去歳上言数度何れも許されず、窮余富商動誘の一途を選びしも果さず、中斎憤つて曰ふ、

「吾れ当に一身を犠牲に供して窮民の為めにする所あるべし」

と、遂に其の八日門弟子と洗心洞に義盟を結ぶ、加はるもの三十余人。

二月、書賈河内屋善兵衛等を呼び、蔵書五万巻を売つて六百数十金を得、之を窮民賑恤の資となせり。

十五日夜同志と会して、挙兵の期日一般方略を洗心洞に議す。

これよりさき西町奉行堀伊賀守入府して、任に就き、恒例により市中を巡視せんとし、而して天満地方は十九日に相当す。此の日は偶々洗心洞春月釈奠の例日に相当せるを以て、中斎は之を絶好の機会として事を挙げんとせる如し。

二日前檄文を頒布す、其の文は「四海困窮せば天禄永絶」の語に筆を起し、神武中興の恢復せざる可らざるを切言し、慷慨淋滴、終に弔民唱義の挙の已むべからざるを述ぶ、蓋し中斎一代の精力を此の一篇に傾倒したるものか、

然るに十七日変節したるものあり、深更に跡部山城守に密訴したるを以て其事露顕す。

又た変節して堀伊賀守に内訴状及び檄文を呈せしものあり、中斎曰く事此に至る、直に発せんのみと、

十九日午前、遂に盟軍の進出となる、これぞ一世を慫動せしめたる大塩騒動なり。

兵火の消せざること三日夜、遂に敗れ、中斎父子夜陰に小艇を浮べて踪跡を晦ましたるも、遂に発見せられ、家を焼きて焚死す、時に天保八年三月二十七日なり。

中斎の此の学を今日の政治運動と見、社会運動と見るは当らず、これを倫理運動と見る時に於てのみ、此の事をなさざるを得ざりし中斎の心事は理解せられんか。川田甕江

と、明治十四年板行の洗心洞箚記に序して曰へるは、知言と謂ふべし。


『洗心洞箚記』目次/その4/その6

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