岩波書店 1940 より
序 説 |
中斎学説の第三は気質変化なり。倫理的要素を含む学説に於て、屡々此の説をみるは必然的要求より来るものなるも、気質に対する解釈の如何は、其の間相当の相違を来たす。朱子は性を本然と気質とに分類し、気質に悪の原因ありとなす、故に朱子学に於て気質を変化することは重要欠ぐ可らざる教説となる。王子は気質に悪を認めず、要は人欲を去るにありとの観点に立つ、故に殆ど気質変化に論及せず、此の点中斎は王子と其の見を異にする如きも、中斎の謂へる気質は王子の謂へる客気勝心に外ならず。曰く、
吾輩は、心の本体、謂はゆる至善、謂はゆる中、謂はゆる太極なるものを見んことを欲す。然らば障翳する所の気質は宜しく先づ変化すべし。然らずば徒学空談なり――と。
又曰く、
常人方寸の虚は聖人方寸の虚と同一の虚なり。而して気質は則ち清濁昏明年を同じうして語るべからず。方寸の虚は便ち是れ太虚の虚にして、太虚の虚は便ち是れ方寸の虚なり、本と二つなし。畢竟気質之を牆璧するなり。故に人は学んで気質を変化せば、聖人と同じきもの宛然として編布照耀し、包涵せざるなく、貫徹せざるなし。嗚呼気質を変化せずして学に従事する者は、其の学ぶ所将た何事ぞ。陋と謂ふべし――と。
中斎に於ては、気質変化は、人格完成上緊切欠く可らざる手段にして、又た其の性格より来れるを窺知すべきか。