山田準『洗心洞箚記』(本文)139 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.4.17

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『洗心洞箚記』 (本文)

その139

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

             ちやう          べんばく 一六八 後儒、一気の説を以て張子気質の性を弁駁す。                  けいじご  然れども張子の言を三復するに、「形而後素質の性         あり。善く之に反れば、則ち天地の性存す、故に気                       かくこ  質の性は、君子性とせざる者あり」と。此の説確乎         としてそれ易ふべからざるものなり。何となれば則           せんてん          こう  ち一気の説は、人・先天に在つては則ち然り、後天  に至つては則ち明らかに善悪あり。而て之を本然の  性と謂ふは可ならんや。故に之を気質と謂はざるを                        得ず。之を素質と謂はざるを得ざれば、則ち強ひて                         名づくるに此れを以てするにあらざれば、則ち将た  何とか謂はん。是れ乃ち張子の本意にあらず。故に  又た曰く、「善く之に反れば、則ち天地の性存す云          がい  云」と。是に於て概して素質を以て性と為せるにあ                 らざるを見るべし。只だ人の為めに慮るや深し。而  も其の之を弁駁するは何ぞや。吾れは則ち気質の性                 たから  の説を以て、天下欠ぐべからざるの宝と為すなり。   後儒以一気之説、弁駁張子気質之性、然三   復張子之言、「形而後有気質之性、善反之、   則天地之性存焉、故気質之性、君子有性者   焉、」此説確乎其不易者也、何則一気之説、   人在先天則然、至後天則明有善悪焉、而   謂之本然之性可乎、故不之気質、   不之気質、則強名焉非此、即将   謂何、是乃非張子之本意、故又曰、「善反   之、則天地之性存焉云云」、於是可概   以気質性矣、只為人慮也深矣、而其弁駁   之何也、吾則以気質之性之説、為天下不   欠之宝也、


後儒云々。天
地一元気なれば、
別に気質の気な
しといふ。

張子。張横渠
のこと、前出。
正蒙を著はし、
太虚を主張し、
又気質の性を説
く。

形而後云々。
形而上に対し人
として形はれた
後を形而後とい
ふ、易の繋辞篇
に本づく。

之に反。性の
本に反る。

先天。先天は
天より賦与せら
れしもの、後天
は生後に受けし
もの。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その138/その140

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