山田準『洗心洞箚記』(本文)24 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.30

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『洗心洞箚記』 (本文)

その24

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

           たと    三四 灯燭を以て良知に喩ふるは似たり。而も灯燭は            きめつ      起滅あり、良知は起滅なし。日月を以て良知に喩              かいしよく   ふるは近し、而も日月は晦蝕有り、良知は晦蝕な   し。然らば則ち何を以て之を喩へん、喩ふべきも   のなし。夫れ良知は只是れ太虚の霊明のみ。然り   而て時あつて灯燭を以て之を喩ふ、亦た不可なし。   時あつて日月を以て之を喩ふ、亦た不可なし。中   人以下を開導教誨するの方法は、以て此の如から   ざるべからざるなり。もし直ちに太虚の霊明を以                   て之に説かば、則ち魏の文侯古楽を聴くと同じ、   唯だ臥せんことを恐る。唯だ臥せんことを恐る、   故に耳に入り、心に存する能はざるなり。其の極   世に善人なきに至る。人の師たる者は宜しく心を   教法に用ふべし。    以灯燭良知似矣、而灯燭有起滅、良知    無起滅也、以日月良知近矣、両日月有    晦蝕、良知無晦蝕也、然則以何喩之、無    喩者、夫良知只是太虚霊明而已矣、然而有時    以灯燭之、亦無不可、有時以日月    之、亦無不可、開導教誨於中人以下之方法、    不以不此也、如直以太虚霊明之、    則与魏文侯聴古楽同矣、唯恐臥、唯恐臥、    故不耳存心也、其極至於世無善人、    為人師者、宜心於教法矣、


王子徐機に答
ふ、年譜に見ゆ。

似。道理ある
に似る。

日月云々。伝
習録黄省曾所録
に見ゆ。

誨蝕。晦はみ
そか、蝕は日蝕。







古楽云々。礼
記の楽記に見ゆ。


高瀬武次郎「大塩中斎」その28


『洗心洞箚記』(本文)目次/その23/その25

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