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一二九 朱子曰く、「我れを以て書を観れば、処処
● ひろ ● お ばう
益を得、書を以て我れを博むれば巻を釈いて茫然
たり」と。又た曰く「聖賢の言を読みて而て心に
●
通せず、身に有せずんば、猶書肆たるを免れず。
況んや其の読む所、又た聖賢の書にあらざるをや。
みちび けうくわ
此を以て人を道き、乃ち其の教化行はれて風俗の
美ならんことを望まんと欲するも其れ亦た難し」
かいしやく ●し き
と。又た曰く、「文義を解釈して、各々指帰あら
しむるは、正に以て道を語らんと欲するのみ。然
せ
らずんば則ち文義を解釈するとも何か為ん」と。
も
又た曰く「書を読み学を為すは本と以て心を治め
んとなり。今は乃ち唯に之を治むる能はざるのみ
ならず、而も乃ち外に向つて奔馳し、休息を得ざ
かへつ
らしめ、以て反て之が書を為すに至る、是れ豈迷
惑の甚しきものと為さざらんや」と。又た曰く、
●
「聖賢の心事今只だ紙上に於て看る、如何ぞ見得
ん」と。又た曰く、「須らく反し来つて自家身上
に就いて推究すべし」と。又た曰く、「一句の書
こ なん
を読まば、須らく這の一句、我れ将来甚の処に用
ひ得んと体察すべし」と。又た曰く、「大学を読
かれ まさ
む豈他の言語に在らんや、正に之を心に於て如何
● にく
と試験せんことを欲す。好色を好み悪臭を悪むが
如き、之を吾が心に験す、果して能く此の如きか
●
と。間居して不善を為す、是れ果して此れあるか
と、一つ至らざるあれば、則ち猛勇奪躍して已ま
ず、必ず長進あり。今此の如くするを知らずんば、
●
書は自から書、我は自から我にして、何の益か之
れあらん」と。又た曰く、「聖学伝はらざるより
もと
士たる者学の本あるを知らず、而て書に求むる所
● す こゝ
以は、記誦訓詁文詞の間に越ぎず、是を以て天下
くら
の書愈々多くして、而て理愈々昧く、学者の事愈々
● はう
勤めて、而て心愈々放し、詞章愈々麗くし、議論
愈々高うして、而て其の徳業事功の実は、愈々以
およ み
て古人に逮ぶなし」と。又た曰く、「書を観るは
た たいら
但だ心を虚しくし気を平らかにして、以て徐ろに
義理の在る所を視るべし。もし其れ取るべくんば、
す
世俗庸人の言と雖も、廃てざる所あり、もし其れ
疑ふべくんば、我が伝へて以て聖賢の言と為すと
しんたく
雖も、亦た須らく更に審択を加ふべし」と。又た
しんかん
曰く、「秦漢以来道学伝はらず、儒者己に反り心
を潜むるを知らず、而て一に記覧誦説を以て事と
為す、是を以て有道の君子は探く以て憂ひとなす。
かつ つか くう
然れども亦た未だ嘗て遂に書を束ねて読まず、空
めう ざだん ● げうかう
妙を坐談するを以て、以て聞くあらんことを徼倖
すべしと為さざるなり」と。又た曰く、「学を為
● ぺん
して書を観ざるは此れ固より一偏の論なり。然れ
おさ
ども近日又た一般の学問あり、経を廃して史を治
め、王道を略して覇術を尊び、古今興亡の変を極
たゞかく
論して、而て此の心存亡の端を察せず。もし祇此
まさ
の如く書を読まば、則ち又た読まざるの愈れりと
し いはん ●
なすに若かざるなり。況んや又た中年の精力限り
ひろ み ひろ
あり、其の汎く観て博く取らんよりは、熟読して
し しやく すん
精思せんに若かず。尺を得れば吾が尺、寸を得れ
●こうりよく ま
ば吾が寸となす。始めて功力を枉げ用ひずと為す
でう
のみ」と。右の十有二條は乃ち朱子の書を読み学
●くくわく
を為すの矩なり、深切丁寧なりと謂ふべし。故
に人の之を解くは甚だ易きに似て、而て之を行ふ
は益々難し。朱子の歿後、其の学者、果して我れ
そも/\ ひろ
を以て書を観るか、抑書を以て我れを博むるか、
恐らくは書を以て我れを博むる者多からん。然ら
とな
ば則ち口に朱学を倡ふと雖も、而も実は則ち其の
門外漢にあらずして何ぞ。聖賢の言を読み、之を
身心に求め、而て教化風俗に意あらんか、恐らく
ば之を読むと雖も心に通ぜず、身に有せず、而て
ぐわいし
教化風俗を外視するもの亦た多からん。此の類を
以て書肆に比するの誡は、朱子既に已に之を言へ
●せつぶんせい こけいさい
り。則ち薛文清・胡敬斎を待つて始めて貶せるに
かいしやく ●けんしぎうまう
あらざるなり。文義を解釈すること繭糸牛毛なる
ふ
も、而も道を語つて以て之を履むか、恐らくは道
を語つて以て之を履む者多からじ。文義を解釈す
せ かしやく
るとも何か為んの呵責は、既に朱子に起り、而て
陸王に起らざること明明なり。書を読んで以て心
を治むるか、恐くは書を読んで心を治めざるもの
十に九ならん。然らば則ち外に向つて奔馳せんこ
と必せり。此れ亦た朱子の「反つて之が害を為す」
ゆる
と、「迷惑の甚しき」との憂患を弛むる能はざる
●
なり。紙上に於て行を尋ね墨を数ふるのみならん
み え も
か、亦た能く聖賢の心事を見得んや。如し聖賢の
心事を見得る能はずんば、則ち面目の朱子に対す
る無きにあらずや。身上に就いて推究するか、身
上に就て推究せずんば、則ち朱学と謂ふ可ならん
これ
か。一句の書を読み、之を体察して以て諸を用に
もと これ
顕はさんことを要むるか、諸を用に顕はすに非ざ
●
れば、則ち朱子生前の実功と胡越たり。大学を読
み、善を好むこと好色を好むが如く、悪を悪むこ
と悪臭を悪むが如く、之を吾が心に験するか。間
居不善の有無、亦た内省するか。工夫到らずんば、
則ち朱子の謂はゆる「書は自から書にして、我れ
は自から我れといふ者」にあらずや。猶是れを以
もと
て道を学ぶと謂ふか。学の本あるを知らず、而て
只だ書に求むるか、只だ書に求むれば、則ち記誦
およ
訓詁文詞のみ、而て其の徳業事功古人に逮ぶなき
の嘆は、外人の嘆にあらずして、乃ち朱子の長大
むなし
息なり。書を観て果して心を虚うし気を平らかに
ようじん
するか、庸人の言と雖も、義に協ふ者は則ち果し
て之を容るゝか、伝ふる所と雖も、疑あらば則ち
まつがく へい
審択を加ふるか。夫れ末学の弊は、大人君子の言
す ●ど さ
と雖も、棄てて土苴の如し、則ち何ぞ敢て庸人の
言を容れんや、何ぞ敢て其の伝ふる所の疑はしき
ものを審択せんや。然らば則ち朱子の公正寛弘の
きようおく
胸臆と、氷炭黒白の如く然らん。此くして門戸を
たゝ のこ
立つるは、客気勝心之れ崇るにあらずや。心を遺
つか
して以て記覧誦説に従事するか、書を束ねて読ま
●まへ ●
ず、空妙を坐談するか、前は則ち卑陋に流れ、後
●
は則ち釈老に堕ちん。朱学の弊は彼れに似、陸学
とも
の弊は此れに似る、倶に聖学にあらず。是れ乃ち
朱子の恐るる所、而て陸子も亦た慮る所なり。経
を廃して史を治むるか、王道を略して覇術を尊ぶ
か、古今を極論して心を察せざるか、汎観博取す
●
るか、もし此の数の病あらば、則ち陳同甫者流に
して、而て程朱の子弟にあらざるなり。然かも程
か
朱の名を借つて、而て陰に同甫の学を襲するもの
こ
比比あり、此れ朱門の罪人にあらずして何ぞ、鳴
呼、吾れ朱子の言を引き、末学の弊を歴数す、豈
た ●
他あらんや、只だ後進終に朱学の本色を知る能は
●うん/\
ず、而て善人の世に殖えざるを恐る、故に云云せ
り。意を誠にし学を為すの人にあらずんば、孰か
能く某の心を察識せんや。
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●我心を主とし
て書を読む。
●書を主として
我を智識づける。
●書を離れて之
に対せざる時は、
我得る所なく
ぼんやりする。
●書肆。書の売
店、書物が我が
身心に関係なし。
●指帰。旨趣定
まり、帰省する
所あるを云ふ。
●紙上。文字の
上。
●大学の語.本
心を欺かぬこと
斯の如くあれと
の意。
●小人閉居云々、
大学の語。
●書物と自分と
の間が無関係に
なること、没交
渉。
●記誦は読み覚
える、訓詁は字
義を解釈する、
文詞は作文の助
けにする。
●心愈々放。放
心の度が進む。
●万に一つ道を
聞くことを僥倖
し得られるかも
知れぬとはしな
い。
●一偏。一方に
かたよる。
●中年。四十歳
前後。
●功(しごと)
力を漫りに誤用
せぬことになる。
●矩。標準
●明の薛と胡
居仁、前出。
●繭糸牛毛。絹
糸や牛毛を細か
く分析するほど
緻密なりとの意。
●行数を尋ね、
字数を数へる。
●胡越。北の胡
と、南の越と相
隔たりて反対せ
ることをいふ。
●土苴。土や糞
草等、つまらぬ
物の意。
●前の記覧誦説
者は。
●後の空妙坐談
者は。
●陸学。陸象山
の学。
●陳同甫者流。
陳同甫の類、南
宋の陳亮、字は
同甫、喜んで兵
を談じ、経済に
志ざす、朱子之
を喜ばず。
●本色。本領。
●云々。しかじ
かといふ、前文
を指す。
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