山田準『洗心洞箚記』(本文)280 Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.1.16/1.17最新

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大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その280

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

           一二九 朱子曰く、「我れを以て書を観れば、処処             ひろ     お    ばう  益を得、書を以て我れを博むれば巻を釈いて茫然  たり」と。又た曰く「聖賢の言を読みて而て心に                 通せず、身に有せずんば、猶書肆たるを免れず。  況んや其の読む所、又た聖賢の書にあらざるをや。        みちび      けうくわ  此を以て人を道き、乃ち其の教化行はれて風俗の  美ならんことを望まんと欲するも其れ亦た難し」             かいしやく    し き  と。又た曰く、「文義を解釈して、各々指帰あら  しむるは、正に以て道を語らんと欲するのみ。然                     らずんば則ち文義を解釈するとも何か為ん」と。                  又た曰く「書を読み学を為すは本と以て心を治め  んとなり。今は乃ち唯に之を治むる能はざるのみ  ならず、而も乃ち外に向つて奔馳し、休息を得ざ        かへつ  らしめ、以て反て之が書を為すに至る、是れ豈迷  惑の甚しきものと為さざらんや」と。又た曰く、             「聖賢の心事今只だ紙上に於て看る、如何ぞ見得  ん」と。又た曰く、「須らく反し来つて自家身上  に就いて推究すべし」と。又た曰く、「一句の書                   なん  を読まば、須らく這の一句、我れ将来甚の処に用  ひ得んと体察すべし」と。又た曰く、「大学を読    かれ         まさ  む豈他の言語に在らんや、正に之を心に於て如何                     にく  と試験せんことを欲す。好色を好み悪臭を悪むが  如き、之を吾が心に験す、果して能く此の如きか      と。間居して不善を為す、是れ果して此れあるか  と、一つ至らざるあれば、則ち猛勇奪躍して已ま  ず、必ず長進あり。今此の如くするを知らずんば、    書は自から書、我は自から我にして、何の益か之  れあらん」と。又た曰く、「聖学伝はらざるより        もと  士たる者学の本あるを知らず、而て書に求むる所              す      こゝ  以は、記誦訓詁文詞の間に越ぎず、是を以て天下                くら  の書愈々多くして、而て理愈々昧く、学者の事愈々           はう  勤めて、而て心愈々放し、詞章愈々麗くし、議論  愈々高うして、而て其の徳業事功の実は、愈々以      およ                て古人に逮ぶなし」と。又た曰く、「書を観るは           たいら  但だ心を虚しくし気を平らかにして、以て徐ろに  義理の在る所を視るべし。もし其れ取るべくんば、              世俗庸人の言と雖も、廃てざる所あり、もし其れ  疑ふべくんば、我が伝へて以て聖賢の言と為すと            しんたく  雖も、亦た須らく更に審択を加ふべし」と。又た      しんかん  曰く、「秦漢以来道学伝はらず、儒者己に反り心  を潜むるを知らず、而て一に記覧誦説を以て事と  為す、是を以て有道の君子は探く以て憂ひとなす。          かつ         つか           くう  然れども亦た未だ嘗て遂に書を束ねて読まず、空  めう  ざだん                げうかう  妙を坐談するを以て、以て聞くあらんことを徼倖  すべしと為さざるなり」と。又た曰く、「学を為                ぺん  して書を観ざるは此れ固より一偏の論なり。然れ                       おさ  ども近日又た一般の学問あり、経を廃して史を治  め、王道を略して覇術を尊び、古今興亡の変を極                      たゞかく  論して、而て此の心存亡の端を察せず。もし祇此                    まさ  の如く書を読まば、則ち又た読まざるの愈れりと      し           いはん     なすに若かざるなり。況んや又た中年の精力限り       ひろ  み  ひろ  あり、其の汎く観て博く取らんよりは、熟読して        し     しやく        すん  精思せんに若かず。尺を得れば吾が尺、寸を得れ             こうりよく ま  ば吾が寸となす。始めて功力を枉げ用ひずと為す            でう  のみ」と。右の十有二條は乃ち朱子の書を読み学      くくわく  を為すの矩なり、深切丁寧なりと謂ふべし。故  に人の之を解くは甚だ易きに似て、而て之を行ふ  は益々難し。朱子の歿後、其の学者、果して我れ          そも/\            ひろ  を以て書を観るか、抑書を以て我れを博むるか、  恐らくは書を以て我れを博むる者多からん。然ら          とな  ば則ち口に朱学を倡ふと雖も、而も実は則ち其の  門外漢にあらずして何ぞ。聖賢の言を読み、之を  身心に求め、而て教化風俗に意あらんか、恐らく  ば之を読むと雖も心に通ぜず、身に有せず、而て       ぐわいし  教化風俗を外視するもの亦た多からん。此の類を  以て書肆に比するの誡は、朱子既に已に之を言へ      せつぶんせい  こけいさい  り。則ち薛文清・胡敬斎を待つて始めて貶せるに            かいしやく   けんしぎうまう  あらざるなり。文義を解釈すること繭糸牛毛なる                 も、而も道を語つて以て之を履むか、恐らくは道  を語つて以て之を履む者多からじ。文義を解釈す        せ    かしやく  るとも何か為んの呵責は、既に朱子に起り、而て  陸王に起らざること明明なり。書を読んで以て心  を治むるか、恐くは書を読んで心を治めざるもの  十に九ならん。然らば則ち外に向つて奔馳せんこ  と必せり。此れ亦た朱子の「反つて之が害を為す」                 ゆる  と、「迷惑の甚しき」との憂患を弛むる能はざる            なり。紙上に於て行を尋ね墨を数ふるのみならん               み え       も  か、亦た能く聖賢の心事を見得んや。如し聖賢の  心事を見得る能はずんば、則ち面目の朱子に対す  る無きにあらずや。身上に就いて推究するか、身  上に就て推究せずんば、則ち朱学と謂ふ可ならん                    これ  か。一句の書を読み、之を体察して以て諸を用に         もと       これ  顕はさんことを要むるか、諸を用に顕はすに非ざ                 れば、則ち朱子生前の実功と胡越たり。大学を読  み、善を好むこと好色を好むが如く、悪を悪むこ  と悪臭を悪むが如く、之を吾が心に験するか。間  居不善の有無、亦た内省するか。工夫到らずんば、  則ち朱子の謂はゆる「書は自から書にして、我れ  は自から我れといふ者」にあらずや。猶是れを以              もと  て道を学ぶと謂ふか。学の本あるを知らず、而て  只だ書に求むるか、只だ書に求むれば、則ち記誦                    およ  訓詁文詞のみ、而て其の徳業事功古人に逮ぶなき  の嘆は、外人の嘆にあらずして、乃ち朱子の長大               むなし  息なり。書を観て果して心を虚うし気を平らかに      ようじん  するか、庸人の言と雖も、義に協ふ者は則ち果し  て之を容るゝか、伝ふる所と雖も、疑あらば則ち            まつがく へい  審択を加ふるか。夫れ末学の弊は、大人君子の言        ど さ  と雖も、棄てて土苴の如し、則ち何ぞ敢て庸人の  言を容れんや、何ぞ敢て其の伝ふる所の疑はしき  ものを審択せんや。然らば則ち朱子の公正寛弘の  きようおく  胸臆と、氷炭黒白の如く然らん。此くして門戸を             たゝ         のこ  立つるは、客気勝心之れ崇るにあらずや。心を遺                   つか  して以て記覧誦説に従事するか、書を束ねて読ま             まへ          ず、空妙を坐談するか、前は則ち卑陋に流れ、後                        は則ち釈老に堕ちん。朱学の弊は彼れに似、陸学           とも  の弊は此れに似る、倶に聖学にあらず。是れ乃ち  朱子の恐るる所、而て陸子も亦た慮る所なり。経  を廃して史を治むるか、王道を略して覇術を尊ぶ  か、古今を極論して心を察せざるか、汎観博取す                    るか、もし此の数の病あらば、則ち陳同甫者流に  して、而て程朱の子弟にあらざるなり。然かも程        朱の名を借つて、而て陰に同甫の学を襲するもの         比比あり、此れ朱門の罪人にあらずして何ぞ、鳴  呼、吾れ朱子の言を引き、末学の弊を歴数す、豈                  他あらんや、只だ後進終に朱学の本色を知る能は                     うん/\  ず、而て善人の世に殖えざるを恐る、故に云云せ  り。意を誠にし学を為すの人にあらずんば、孰か  能く某の心を察識せんや。


我心を主とし
て書を読む。

書を主として
我を智識づける。

書を離れて之
に対せざる時は、
我得る所なく
ぼんやりする。

書肆。書の売
店、書物が我が
身心に関係なし。


指帰。旨趣定
まり、帰省する
所あるを云ふ。













紙上。文字の
上。











大学の語.本
心を欺かぬこと
斯の如くあれと
の意。

小人閉居云々、
大学の語。



書物と自分と
の間が無関係に
なること、没交
渉。



記誦は読み覚
える、訓詁は字
義を解釈する、
文詞は作文の助
けにする。

心愈々放。放
心の度が進む。





















万に一つ道を
聞くことを僥倖
し得られるかも
知れぬとはしな
い。

一偏。一方に
かたよる。









中年。四十歳
前後。




功(しごと)
力を漫りに誤用
せぬことになる。

。標準






















明の薛と胡
居仁、前出繭糸牛毛。絹
糸や牛毛を細か
く分析するほど
緻密なりとの意。















行数を尋ね、
字数を数へる。













胡越。北の胡
と、南の越と相
隔たりて反対せ
ることをいふ。


























土苴。土や糞
草等、つまらぬ
物の意。









前の記覧誦説
者は。

後の空妙坐談
者は。

陸学。陸象山
の学。






陳同甫者流。
陳同甫の類、南
宋の陳亮、字は
同甫、喜んで兵
を談じ、経済に
志ざす、朱子之
を喜ばず。




本色。本領。

云々。しかじ
かといふ、前文
を指す。


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