山田準『洗心洞箚記』(本文)290 Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.2.10

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『洗心洞箚記』 (本文)

その290

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

              じ    び かん 一三六 陽明語録に曰く、一友侍す、眉間に憂思あ      かへり  り。先生顧みて他友に謂つて曰く、「良知は固よ     とほ     とほ             とほ  り天に徹り地に徹り、近く一身に徹る。人の一身 さはや            ま      たゞ  爽かならざるは、許の大事を須たず、第頭上に一  ぱつ かすい       こんすい           なん  髪下垂するも、渾身即ち不快と為す。此の中那ぞ                   それがし  一物を容れ得んや」と。先生又た曰く、「某良知                     ようい  の説に于いて、百死千難中より得来る、是れ容易     けんとく             に此に見得し到れるにあらず。此れ本と是れ学者 きうきやう わとう  や           た      かう  究竟の話頭、己むことを得ずして人の与めに一口        たゞ  に説き尽す。但学者之を得ることの容易にして、            な    ぐわんろう  只だ把つて一種の光景と做して玩弄し、此の知に   こ ふ  孤負せんことを恐るのみ」と。謹んで按ずるに、         やす  先生の良知は、易きが如くして難し、難きが如く      やす  して亦た易し。前の一條を似て之を見れば、則ち     ちか                光景に庶し、故に易きが如し。然れども一点を心                    わうりうけい  に存せざるに至つては、則ち実に難し。王龍渓・  わうしんさい  らきんけい       けだ  王心斎及羅近渓三先生の学は、蓋し此れよりして                     じつせん  入れり。後の一條を以て之を見れば、則ち実践よ                  あま  り来る、故に難し。然れども難きを甘んじ死を忘         じ/\ばうがい       やす  るれば、則ち事事妨礙あることなし、易きにあら     せんしよざん なんずいせん    らねんあん  ずや。銭緒山、南瑞泉及び羅念菴三先生の学は、                まつがく   へい  蓋し此れよりして入れり。其の末学各々弊なきに  あらずと雖も、要するに其の性の近きところより            にぎ  入れり。而かも学脈を握つて、而て教を立て功を            よたく  立つるは、豈先生の余沢にあらざらんや。   陽明語録曰、一友侍、眉間有憂思、先生顧謂   他友曰、「良知固徹天徹地、近徹一身人   一身不爽、不許大事、第頭上一髪下垂、   渾身即為不快、此中那容得一物耶、」先生   又曰、「某于良知之説、従百死千難中得来、   非是容易見得到此、此本是学者究竟話頭、   不已与人一口説尽、但恐学者得之容易、   只把做一種光景玩弄、孤負此知耳、」謹按、   先生良知、如易而難矣、如難而亦易矣、以   前一條之、則庶乎光景、故如易、然至   不一点于心、則実難矣、王龍渓王心斎及   羅近渓三先生之学、蓋自此而入焉、以後一條   見之、則自実践来、故難、然甘難忘死、   則事事無妨礙、非易乎、銭緒山南瑞泉及   羅念奄三先生之学、蓋自此而入焉、其末学雖   各不弊、要自其性近入、而握学脈、而   立教立功、豈非先生之余沢也故、


此の語、愈本・
張本伝習録に出
づ、一友の良知
に徹せざるを諭
す。

許。此のとい
ふ如し。



此の語陽明全
書年譜に出づ。



究竟話頭。奥
づまつた最後の
話件。


一種の光景云
云。良知を想像
して一種特別の
光景(ありさま)
を画き出して、
おもちやにし、
真実義なる此
の良知に背(孤
負)く。

一点云々。第
一項の「此の中
那ぞ一物を容れ
得んや」の処。

龍渓は王畿、
心斎は王艮、二
人共に王門の高
弟、近渓は羅汝
芳、心斎の弟子
顔山農に学ぶ、
皆何れも前出す。
三子悟より入る
に近し。

緒山は銭徳洪、
王龍渓と共に王
子晩年の高弟、
瑞泉は南元善、
綜興の知府たり、
念菴は羅洪先、
嘉靖第一進士、
孝性あり官を罷
め益々王子の学
を尋求す、以上
三子の学は、実
践を重んず。


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